繋がり。***08



目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。身体をゆっくりと越す。頭はすっきりしないが吐き気はない。
頭の上の時計を見ると、夜中の12時を少し過ぎた所だった。こんなに寝ちゃったのか。
ふと視線をベッドの右側に移すとロスが両腕を枕代わりにして眠っていた。肩がゆっくりと呼吸に合わせて動いている。
「ロス…」
きゅう、と胸が締めつけられた。嬉しさと申し訳なさと不安が入り混じってかなり複雑な気持ちになった。
ずっと、側にいてくれたのかな。ちゃんとバイトに行ったのかな。制服姿のままだ。
と同時に腹は鳴かなかったが空腹感に襲われた。そうだ、昼以降何も食べていない。
とりあえずそっとベッドを抜け出す。制服姿のままなので着替えようかと思ったが止めた。
物音を立てればロスを起こしてしまう。あんな事があった後だ。起きてしまったら少し気まずい。
何か毛布でも肩に掛けてあげたいけれど、止めた。ボクはロスを起こさないように部屋の電気は消したまま、
ゆっくりとドアを開けて廊下に出ると再びゆっくりとドアを閉めた。足音をたてずに忍び足で1階に降りていき、
リビングに行くとテーブルの上にはメモとラップのかかったおにぎりが2つ作ってあった。
メモには母さんの字で「起きたら食べなさい」と書いてある。冷蔵庫から水を取り出してコップに注ぎ、席に着いてから両手を合わせておにぎりを手に取った。
冷えてしまったおにぎりを温めようかと思ったが空腹には敵わずそのまま口に運ぶ。中身はおかかだ。少し固いが美味しい。
「……………」
壁に掛けてある時計の秒針の音がやけにはっきりと部屋に響いている。
時間が時間だし外も周りも静かだ。ボクは一つ目のおにぎりを食べ終わると昼間の事を思い出していた。
あの時のロスは尋常じゃなかった。ロスは、ボクがあの刑事と話をするのを極力嫌がった。


『大きくなったな、あの時の子供がこんなにでっかくなっちまうんだもんなあ』
『何を驚いているんだ?君だって知っている筈じゃないか。あの事件は─』


刑事の言葉が重く圧し掛かる。知っている?ボクが何を知っているっていうんだ。
ボクはロスの事なんて何一つ知らない。ロスのお父さんもお母さんもどんな子供時代を過ごしてきたかも。
そうだ。そんな他愛もない会話すらいつものノリで殴られて結局聞けずじまいで終わっていた。
幼馴染のクレアの存在だって最近知ったばかりだ。
小学校は?中学校は?どこでどんなふうに暮らしていたの?
こんな状態でよくロスの事を好きだと言えたものだ。

気分が悪くなる直前思い出したのはシオンとクレア、そして子供の頃に入院していたあの病院だった。
ルキメデス…刑事はその男をロスの父親だと言った。
なぜだろう、この名前を思い浮かべると再び口にするのが怖くなるほど不安な気持ちになる。
ただの名前なのにそう思えない。

あの事件…あの事件って何?何も知らないのはボクが子供だったから?
どうして、シオンとクレアなんだろう。どうして、そこにロスが関わってくるんだろう。

大切な赤いスカーフとお手製のネックレス。
大切だったはずの友達の顔すらも思い出せない。
大切なら少なからずとも記憶に残っているはずだ。
なのに、ただ漠然と仲が良かった程度にしか記憶にない。

二人に会ったのはいつだった?
二人とはいつから仲がよかったんだっけ?

そもそも入院していた時のことを殆ど覚えていないなんて変じゃないか?
小さい頃だったし忘れていても別に気にも留めずに安易に片づけていた自分もいた。
シオンとクレアはロスと何か関係があるの?だとしたらやっぱりクレアは…あのクレアなのか?
シオンは、シオンは……ロス…?いや、そんなはずない。名前だって違うし…ボクは、何を忘れている……?
ああ、ダメだ!頭痛い。頭の中がごちゃごちゃしていてパンクしそうだ。

どたどたと早足で急いで階段を下りる音がしてボクは思考を停止させた。母さんの足音とは明らかに違う。
ロスが起きたんだ。ボクはリビングの入口の方を見た。リビングのドアはいつも開けっぱなしにしてある。
ほんの数秒後に姿を現したロスはボクの姿を見るなり一瞬はっとしたがすぐに険しい顔つきになり早歩きで近寄ってきた。
「起きて大丈夫なんですか?」
ボクの顔色を窺いその声はやや緊張しているようにもとれた。
「う、うん。ありがとう。大丈夫。もう吐き気もないし」
ロスは安堵したがすぐに眉間に皺を寄せた。
「…何か変わったことはありませんか?」
「平気だよ。少し具合が悪くなっただけだから、こんなに寝ちゃってびっくりしたけど」
「本当にそれだけですか?」
いつもなら確実に「チッ。生きてたんですか」と暴言を吐かれてもおかしくない状況なのに。
妙に落ち着きがないロスの態度にこれは本気で心配してくれているんだろうか?と期待が膨らむ。だとしたら素直に嬉しい。
「心配してくれたの?」
「当たり前な事を聞かないで下さい」
流石にイラっとしたのか声に苛立ちが混じっていた。けれど殴られなかった。
「う、うん。それよりバイトちゃんと行ったの?」
聞きたいことは山ほどあるのに、ボクの口から出てきたのはそんな言葉で。
「ええ、貴方が眠った後に。帰ってきてから様子を見に部屋には入りましたけど」
「そっか…」
ちゃんと会話が成立している。やっぱり殴られる事はない。いや、そもそも殴られなかったと思うほうがおかしいんだけど。
ボク等は見つめ合ったまま黙っていた。どちらかが口を開くわけでもない。だけど言わなくちゃ。ちゃんと今思っている事を言うんだ。
「ねえロス…、あの刑事おかしなこと言ってたんだ。ボクがロスのお父さんを知ってるってどういう事?」
ボクは沈黙を破り意を決して話を切り出した。
「そんな馬鹿な話あるわけないでしょう。勘違いでもしたんですよ」
ロスは少し苛ついた口調だ。
「嘘だ!それにあの刑事はボクの事を知っていた!子供だったのに大きくなったなって!」
ボクは声を荒げて椅子から立ち上がるとロスに詰め寄った。火事の時でさえ動揺など見せなかったのに今はどうだ。
大きく目を見開いて明らかに動揺している。その後すぐにこちらを睨みつけてこれでもかと眉間に皺が寄った。酷い顔だ。
こんな風にロスがはっきりと感情を表に出すのを見るのは初めてでボクはぎょっとしてしまった。
「これはオレの身内の問題です。そう簡単にはいそうですかと話せることではありません」
「だけど!!」
「関わるなと言った筈です!!」
「っ!!」
大きな声で、はっきりと拒絶された。じわじわと胸の中に痛みが広がっていく。心にナイフが突き刺さったみたいだ。
涙がじわりと目元に浮かぶ。 「わかった」なんて口にしたくない。大きな声で「嫌だ」と叫んでやりたい。
だけど声が出てこない。言いたくても言えない。拒絶された事がこんなにも悲しくて辛いなんて。
ボクは両手を爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。代わりに涙が頬を伝いぼろぼろと零れ落ちた。視界がぼやける。
どうして、どうして何も話してくれないんだ。やり場のない怒りすら込み上げてくる。
ロスは泣いているボクを見てたじろいだが視線を逸らして舌打ちをすると複雑な表情をした。
「納得、できるわけないですよね」
「当り、前だろ!」
嫌だ、涙声になってる。ボクは零れてくる涙を左手で拭った。
「………はあ」
ロスは深く溜息を吐いた。苦々しい、悲しみに歪められた顔にも見えるし怒っているようにも見える。怖いくらいだ。
ボクは息を呑んだ。ロスは一度口を開きかけてはまた閉じて、だんまり。沈黙が続く。明らかに何か躊躇っている。
実際の時間はほんの数十秒だったのかもしれない。けれどとても長く感じた。
ボクは静かに黙って待っていた。


「──…少し時間を下さい。今はまだ踏み込んで欲しくないんです」


頷くことも肯定することもできなかった。
ただそこに無言で突っ立っている事しかできなかった。
ボクはどんな顔をしていたんだろう。ロスを見る事も出来ず、俯いて自分の足先を見ていただけだった。
ロスにそう言わせたのは他ならぬボク自身だ。




***



翌朝目が覚めると身体にだるさを感じ熱が出た。微熱だったが昨日の事もあって大事を取って今日は学校を休むことにした。
ロスとは昨夜の一件以来顔を合わせていない。

─…あれからボクはロスから逃げるように自分の部屋に戻りそのままふて寝して現在に至る。
ひと眠りして目が覚めたが身体を起こす気にならない。ベッドの中で天井を見上げた。今、何時だろう。外が明るい。


『踏み込んで欲しくないんです』


じわりと胸の奥が痛む。ショックだった。本当に。もっとボクを頼って欲しかった。
そりゃ誰にだって話したくはない過去の一つや二つはある。隠し事だって同じ事。
ロスは何かを隠している。それは明らかだ。それもボクには知られたくない何か。
だからこそ、もっとボクに心を開いて欲しかった。1人で何でも抱え込んで欲しくない。
ロスは1人でなんでもできてしまう分すぐ自分一人で解決しようとする。
「誰かと協力して一緒に何かをする」という考えが抜け落ちていて、なんでも1人でやり遂げようとする。
またそれをやってのけてしまうので達が悪い。ロスの悪い癖だ。
例えを一つあげるとしたら学校でも先生から頼まれたたくさんのプリントの束や教材を1人で運んで
持つ事なんて大変なのは目に見えているのに、軽々と平然な顔をして1人で持ち上げてやってのけてしまう。
他にも色々とあるが思いだしたらキリがない。

だけど、それでもロスは時間をくれと言った。ロスはあんな性格をしているけれど嘘は吐かない。
大人しく待つしかないのだろうか。……正直そんなのは嫌だ。


ピンポーン。


インターフォンが鳴った。母さんがいるから出なくてもいいだろうと思ったけれど続けてインターフォンは鳴り続ける。
ああいけない、そういえば母さん午前中にスーパーに行くって言ってたんだ!ボクはベッドから飛び起きて自分の姿にはっとする。
寝巻き姿といってもTシャツに短パンだし問題ないだろう。
「はーい!今開けます!」
急いで部屋を出て玄関まで下りていきドアを開けると珍しい人物が家の前に立っていた。
宅配便でも郵便でも勧誘でもない。それは制服姿の褐色の肌の友人だった。
「エルフ?」
「おー!なんや思ってたより顔色そんな悪くなさそうやな。アイス買ってきたんやけど、食べる?」
エルフはにっと笑って右手に持っていたポリ袋を上げて見せた。
「わあーありがとう!ってそうじゃなくて!なに学校さぼって来てんだよ!」
ボクは呆れながら言った。
「まあまあ。おじゃましまーす」
「あ!こら!」
エルフは勝手に靴を脱いでボクの家の中に上がり込んできた。
「アルバさんの部屋って2階?」
更に二階への階段を勝手に上り始めている。
「ああもう、そうだよ。ってこら!勝手に行くなって!」
ボクは不法侵入に対するお咎めはこれくらいにして階段を上りエルフを追い越して自分の部屋に彼を通した。
「ひゃ〜この部屋涼しい!生きかえる〜!」
「今日結構暑いの?」
「暑いなんてもんじゃないって!真夏や真夏!6月の気候やないわ」
部屋に入るなり涼しさを満喫したエルフはテーブルの上にポリ袋から2人分のカップアイスを取り出してくれた。
ボクの部屋には勉強机とは別にシンプルな正方形のテーブルも置いてある。
お互い向かい合うように腰を降ろした。エルフはあぐらをかいている。
「起しといてなんやけどホンマに寝てなくてええの?」
「うん、大丈夫」
先程まで眠っていたおかげかだいぶ身体は楽になっていた。ボクは視線を目の前のアイスに移した。
買ってきてくれたのはバニラアイスだった。コンビニやスーパーでよく見かける定番のアイスだ。
「ささ、食べよ食べよ」
「じゃあ、せっかくだし頂くよ」
食べられるかな?と思いながら木製スプーンとアイスを手に取って蓋を上げて口の中に一口運ぶ。
バニラの香りと味が口の中に広がってヒンヤリしてて美味しい。うん、全然余裕で食べられそう。
「それにしても今日はどうしたの?初めてだよね、家来るの」
「そらアルバさんが心配で1人で寂しくしてないかと思ってな」
「ただのサボりの口実なんじゃねーの?」
「んなことないない!」
エルフは笑い飛ばしているが、怪しい。大体どういう風の吹き回しだ。わざわざ家に来るなんて。
まさかただ単に涼みに来たのが口実なんじゃないか?
「で、どうしたん。別の意味で浮かない顔しとるように見えるんやけど」
「そ、そうかな」
ボクはエルフの発言に少しどきりとした。
「悩み事あるんなら話した方がすっきりするで?」
「うんまあ…ちょっと、色々あって、思い出したいことが、思い出せなくて…もやもやしてて」
ボクはアイスを食べる手を止める。まだ半分以上残っている。口の中にはバニラの味が残っていた。
「あーわかるわかる!気持ち悪いよな、こう、もやもやして!」
「そうなんだよね、結構きつくて」
もはや苦笑いしかでてこない。ロスが絡んでいるから余計にそう感じる。
「けどな、記憶に蓋をしているのはアルバさん自身や。思い出したくない。知りたくない。忘れていたい。そんな気持ちが心の奥底にある証拠でな」
「エルフ…?」
ボクはエルフの顔を見た。
「一生思い出さないままかもしれんし、なんかのきっかけで思い出すかもしれん。ま、なんにせよ心の扉を開くのは己自身や」
まさか彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わず驚いて凝視してしまった。
エルフはそんなボクの様子を気にする事もなく木製スプーンでアイスをすくって食べている。
「エルフってたまに大人びた発言するよね」
「長生きやからなあオレ!」
「何言ってるんだよ。ボクと同じ年のくせに」
「嘘やないよ、オレホンマに長生きなんや。アルバさんよりもずーっとずーっと年上」
なんて冗談言いながら笑っている。
「はいはい」
「アルバさんとロスさんはホンマに昔から変わらん。見てて飽きないわ」
「またわけのわからないことを…」
なんでここでロスの名前が出てくるんだ。どうせ冗談だろう。と受け流したらエルフは目を丸くして凝視してきた。
「ア、アルバさんがつっこまない!!」
「そこ重要なの!?」
「なあ、そんなに思い出したいなら手助けしたろうか」
「え?」
エルフはにやりと笑った。そしてアイスをテーブルの上に置くとテーブルに手をついて身を乗り出した。
右腕を伸ばしてボクの額に人差し指が触れる。驚くほどその指先が冷たい。
思わず顔を引いてしまったが指先が追いかける様に再び額に触れてきた。
「な、なに?」
「おまじない。ああ、動かんといて。ええからじっとしてて」
人差し指と中指が額をなぞり指で円を描き、その中になにかを描いているようでかなりくすぐったい。
「ね、ねえくすぐったいよ!」
「もうちょい……はいおしまい!」
エルフの指がやっと指が離れて乗り出した身体を引っ込めた。
「でもこれはあくまできっかけにすぎんからさっきも言ったけどどっからどこまで思い出せるかはアルバさん自身の問題や」
「…何がしたいわけお前」
「だからアルバさんが元気になれるおまじないやって!オレ印の効果抜群や!じゃーオレはそろそろ帰るわ。あんま長居する訳にもいかんし
こんなとこ旦那に見られたらしゃれにならん。殺されるわ」
エルフはそこら辺に置いた鞄を肩に掛けるとすくっと立ち上がった。
「誰の旦那だよ!」
エルフはにやにやと笑っている。ロスと同居しているのだから、からかわれているのはわかる。
だってまだ付き合っている事はクレアしか知らないし他のみんなには秘密だ。そこでロスの事を思い浮かべてしまうボクもボクだけど。
「ロスさん朝から機嫌悪かったで〜?ぶすっとした顔して。喧嘩でもしたん?てっきりそれで元気ないと思ったけどな」
「あはははは…うん、まあ、そんな所。エルフ、ありがとう。アイス、ごちそうさま」
「いいっていいて!あ、見送りとかええよ」
「ううん下まで行くよ。てかちゃんと学校行けよ?」
「大丈夫大丈夫!」
本当に大丈夫なのか。ボクらは玄関まで下りていき別れの挨拶を交わして、エルフを見送った。
途端に賑やかだった室内は静寂に包まれた。ホント、あいつ何しに来たんだ。アイス食べて変なまじないだけしてさっさと帰ってしまった。
まあ、学校サボって来てる訳だから早く帰るのはわかるけれど、今は素直に心配してわざわざ家まで来てくれた事を喜ぼう。
ボクはそんな事を考えながら自分の部屋に戻った。

記憶を取り戻すきっかけ……
ロスが口を割らないなら、だとしたら刑事が言っていた例の事件の事を調べるしかない。
テーブルの上にあった食べかけの溶けかけたアイスを一気に平らげてゴミ箱に捨てると
ボクは机の前に座りノートパソコンの電源を入れようと手を伸ばしたが、寸での所で手が止まる。
ロスの言葉が脳裏を過り躊躇った。『踏みこんで欲しくない』、と。

本当に調べていいの……?
自分の心の声がはっきりと訴えかけてくる。

ボクはちらりと視線を動かした。その先にあるのはクマっちだ。
ボクは椅子から立ち上がりクマっちに巻いてある赤いスカーフを解いた。左手には赤いスカーフ。
右手でお手製のネックレスにそっと触れる。スカーフを鼻の辺りに持っていき瞳を閉じて匂いを嗅ぐとふわりと柔軟剤の香りがした。
なんの匂いだろう。でもいい匂いだ。ああ、やっぱりこれが側にあるとすごく安心する。


「アルバ!」
「アールたん!」


遠くで呼んでいる。2人がボクを呼んでいる。
突然ぐらりと視界が歪んだ。
「な…に…これ…」
強烈な眠気に襲われる。ベッドに、と思う間もなくボクは膝から崩れ落ちるように倒れた。
なんだこれ、なんで。朦朧とした意識の中、瞼を閉じる瞬間ベッドの方へ左手を伸ばそうとしたが叶わず、意識を手放した。




***



「ねえ、まだ目覚まさないのかな」
「こいつ、さっきこっち移ってきたばかりだろ。寝かせとけよ」
真っ暗闇の視界の中ひそひそと小さな声が聞こえた。
「早くお話ししたいなあ!こっちの病棟に来たって事はもうお話しだってできるよね!」
ゆっくりと目を開けると、見慣れない真っ白な天井。
「あ!」という声に二人の見知らぬ顔がボクの顔を覗き込んでいた。
一人は茶髪の子で一人は黒髪の子だ。
「起きた!」
茶髪の子が言った。
「ここ、は…?」
絞り出した声は、か細く弱弱しい。
「病院だよ!あのね、君は─」
「こら!クレア君!シオン君!二人とも何してるの!」
「あ!看護婦さん、この子目覚ましたよ!」
「そうじゃないでしょ!全くもう。ほらほら2人とも出て行きなさい」
白い服を着たお姉さんはボクのベッドの脇に立つとカーテンを閉めてボクの側に居た2人を追い出してしまった。
「アルバ君、わかる?病院よ」
ボクはゆっくりと小さくこくりと頷いた。
「今先生を呼んでくるからちょっと待っててね。お父さんとお母さん、もうすぐ来るからね」
ボクは再び小さく頷くとさっとカーテンを閉めて部屋を出ていく看護師さんを目で追った。
しばらくしてお父さんとお母さん、先生が姿を現して何か話していた。難しくてよくわからない。
先生がボクの胸の音を聞いたりして身体を見て「けいかはじゅんちょーです」って言った。
どうやらボクは怪我をしたらしい。右手と左足に包帯がぐるぐるに巻いてある。
交通事故だってお母さんは言った。お外で遊んでいたら自転車が勢いよく突っ込んできて、
車輪が身体に当たって、痛いって思って、起き上がろうとしたらあちこちが痛くて、でもそこからは何も覚えていなかった。
頭を強く打ったせいだって言ってたけどよくわからない。左手で頭も触ってみると包帯がぐるぐる巻いてあった。
しばらくはお家に帰れないって言われてボクはひとしきり泣いた。
「ひっく…ひっく…」
「アルたん、お母さん毎日病院に顔を出しに来るから」
「やだ!!お家に帰る!!」
「我が侭言わないの。ここにいるみんなだってお家に帰りたくても帰れない子がいっぱいいるのよ?
アルたんは男の子なんだから。お母さんこれからお医者さんとお話ししてくるからいい子で待っていてね」
「戻ってくる?」
「ええ」
そういう言うとお母さんはカーテンを閉めて病室から出て行ってしまった。途端に1人残されて寂しさが込み上げてくる。
ボクはまた泣きだしてしまいそうになるのを、必死に我慢した。男の子なんだから、泣いちゃダメだ。
すると、しゃーっと締め切っていたカーテンが開けられて、ひょっこりとまたさっきの二人組が顔を出した。
「こんにちは!」
にっこりと笑って現れたのはさっきの茶髪の子だ。その子の隣には黒髪の子もいる。
自然とその子と目が合ってキレイな真っ赤な目をしていた。でもすぐに視線を逸らされてしまった。
そして首に巻いている赤い布に目がいった。単純にキレイな赤色だなあって思った。
「どうして泣いてるの?ママさんがいなくなっちゃったから?」
「ち、ちがうよ!」
ボクは慌てて涙を手で拭った。
「ねえねえどこからきたの?あのね、オレはクレア!オレも入院してるの。隣のベッドだよ」
クレアはそう言って隣のベッドを指差した。ボクの右隣のベッドがクレアのベッドらしい。
よく見るとクレアの鼻の頭には絆創膏、頬には白いのが貼ってあるし左手は包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「で、こっちは友達のシオン!シーたんって呼んであげてね!」
「何でお前が言うんだよ。…初めまして」
ぶっきらぼうでそっけない挨拶だった。ちょっと怖い。
「うん、えっと、ボクはアルバだよ」
「アルバくん、アルバくん…じゃあアルたんで!」
にっこりとクレアは笑った。
「……シオンも怪我してるの?」
恐る恐るボクは聞いてみた。
「オレは違う」
「シーたんのパパさんがね、この病院で働いてるんだよ」
「そうなんだ」
「シーたんはパパさんと2人暮らしだから時々病院にお泊りするんだよ。まだお家で1人でお留守番なんてできな─あいた!」
ぽかっとシオンがクレアの頭をぶった!
「オレが父さんの面倒を見てるんだ!あの人放っておくと着替えとかちっとも家に取りに帰って来ないから!」
「え〜?だってシーたんだって十分子供じゃん!」
「なあクレア、刺殺と撲殺どっちがいい?」
「「どっちもダメだよね!?」」
クレアと声が被った。しまった、ついツッコんでしまった。シオンとクレアは顔を見合わせている。
「シーたん。アルたんには勇者の資格があるかもしれない」
「ああ、そうかもな」
「ゆうしゃの、しかく?」
「うん!勇者の資格」
ちょっと意味がわからない。
「やあやあ調子はどうかな?」
「あ、噂をすれば!シーたんのパパさんだよ!」
ぱっとクレアが顔を上げて入口の方を見た。ボクも続けて視線を追いかける。
すると知らない1人の男の人が部屋に入ってきた。白衣を着ていて長い黒髪は後ろで束ねてて、眼鏡を掛けている。
「仕事さぼってこんなとこ来てんじゃねーよ!!」
「お前それが親に対する口の聞き方…あ、ごめん、ごめんね?シーたん、怖い、マジで無言で迫ってくるのやめ…あいたたたた!!!」
シオンのパパはシオンに殴られてる。お腹にパンチが何度も何度も!ボクはその光景にびっくりした!
慌てて止めようとベッドから降りようとしたけれどまだ身体が思うように動かない。けれどクレア曰くあれが愛情表現ってやつらしい。
いつものやりとりらしく心配ご無用なそうだ。
「おや、君は?」
ボロボロになりながらもシオンのパパがボクに気がついた。
「今日この病室に来た子だよ!アルたんっていうの!」
「こ、こんにちは。アルバです」
「はい、こんにちは。礼儀正しくていい子だねえ。うちのシオンとも仲良くしてくれると嬉しいな、アルバ君」
シオンのパパさんは笑いながらボクの頭を撫でてくれた。ふわりと苦い、お薬の匂いがした。


「見つけましたよ!ルキメデス先生!またサボって!」


看護師さんが怒りながら病室に入ってきた。
「さぼりではないよ?私は息子の様子を見に─」
「さぼりです」
「シーたん!?」
「本当にみなさんにご迷惑おかけしてすみません。さっさと連れっててこき使ってやって下さい」
ぺこりとシオンが頭を下げた。
「本当に先生のお子さんにしては勿体無いくらい、いい子ですよねシオン君」
なんて看護師さんは小さく息をついて言った。


ボク達3人はすぐに仲良くなった。ボクはシオンもクレアも大好きだった。
クレアは同じ小児病棟の子で、隣のベッドに入院していた子だった。
明るくて元気いっぱい。話しているだけで楽しかった。いつも元気をくれた。
でもクレアの両親は忙しくて一度も見舞いに来る事はなかった。
だけどクレアは一度も寂しさを見せる事はなかった。

シオンはクレアの友達で毎日病室に顔を出していた子だった。
シオンのパパがこの病院で働いているとクレアは言った。
シオンのママはいない、パパと二人きりの生活なんだって。
シオンは口は悪くてすぐに手が出る子で最初は苦手だった。
だけど本当は優しくて素直じゃないちょっと不器用な子だった。


ぐらりと視界が歪む。酷い目眩がしたような感覚に頭を左右に振った。気がつくとボクは1人、誰もいない病室に立っていた。
目線が高くなっている。子供の頃のボクじゃない。今のボクだ。ゆっくりと部屋の中を歩き、病室中を見た。
ベッドが6つ。白いカーテンが風に靡いている。入口から見て左側。一番窓に近いベッドがボクで、真ん中のベッドにクレアがいた。
ボクは病室を出るドアの取っ手を握り、横にスライドさせると真っ暗な空間が広がっていた。足元には白い階段が下へ下へと続いていた。
何処に繋がっているのか先が見えない。深く、黒い。
「ダメだよ」
声は下から聞こえた。視線を落とすと下の階段から上ってくる子供のボクが目の前に立ちはだかった。
だがその姿にボクは目を見開き一歩後ろに後ずさった。愕然となり言葉を失ったのだ。
小さなボクは当時好きだったにせパンダのキャラクターがプリントしてある白いシャツに、グリーンのズボンを着ていた。
ひざ小僧が出ていて、裸足のままだ。

けれどその服には腹の辺りに真っ赤な血のりがついている。べっとりと。

それも普通の血の量ではない。よく見ると右足からつま先にかけてその血が足へと伝い流れて、くるぶしの辺りで止まっている。
「この先はまだ早い」
どうして?どうして君はそんな姿をしているの?
小さなボクは答えない。ふるふると左右に首を振った。
「この下には真実があるの。それは、今のボクが一番知りたいこと。だけど今のボクじゃ耐えられない」
何を言ってるの?どうしても下りてはいけないの?小さな僕は、今にも泣き出してしまいそうだ。
「お願い。シオンの側にいてあげて。ボクはシオンを守りたい。シオンの側にいたい。もう、シオンがいなくなるのは嫌なんだ」
小さなボクは膝をついて両手で顔を覆い泣いている様だった。痛い。苦しい。悲しい。それらの気持ちと混ざり合い
シオンを大切に想っている気持ちが伝わってくる。ボクまで何故だか無性に悲しくなった。
この階段の下には、真実がある。けれどもう一人のボクはそれを許してはくれない。
小さなボクは悲しそうに、ボクを見上げた。赤い左目からポロリと涙が頬を伝った。
ボクは小さなボクに歩み寄り抱きしめていた。気がついたら身体が勝手に動いていた。





その瞬間全ての視界は暗転した。





「!!!」
ボクは両目をはっきりと見開き飛び起きた。バクバクと心臓は早鐘を打っていて酷い汗だ。
上着もズボンも汗がぐっしょりとはりついて濡れている。
「はあ、はあ、はあ、はあ…」
視線を右へ左へと動かす。部屋の中は暗くなっていていたが確かにここはボクの、部屋だ。
確かベッドに行く間も無く倒れた…?眠ってた…?呼吸を整えるまで少しだけ時間が掛った。
まだ心臓がバクバクと音を立てている。ベッドに寄り掛かり大きく深呼吸をして吐き出した。汗が頬を伝う。

夢…だったのだろうか。いや、あれは夢なんかじゃない。ボクの記憶の一部だ。
最後に小さなボクと何か話をした気がしたがそこの所はあまりよく思い出せない。だけど、後ははっきりと記憶にある。

全てではない。けれど思い出す事ができた。幼い頃のシオンとクレアの顔を、はっきりと。
心に抱えた謎の一つが溶け出していく。疑問が一歩ずつ確信へと変わっていく。
シオン、クレア…幼い頃の彼らと現在の彼らの顔が重なる。鼻の奥がツンとなって泣きそうになった。



「ロスが……ロスは、シオンだ…」



ボクはふらふらと立ち上がり部屋を出た。隣のロスの部屋を開けても真っ暗で誰もいない。
家の中を探してもいない。リビングにもキッチンにもトイレにもお風呂場にも。何処にもいない。
余程酷い顔をしていたのだろう。廊下ですれ違った母さんがびっくりした顔をしてボクを心配したけれど
母さんを気に掛ける余裕もなくて、ボクは再び自分の部屋に戻った。ベッドの脇に置いてあった携帯電話を取ってロスにコールする。
一回、二回、三回、コールは鳴り続けているが出ない。とうとう留守電に切り替わってしまい携帯を切った。

わかってる。わかってるよ。バイトだって。側にはいないって。
痛い。胸が痛い。死んでしまうほど痛い。

もう一度携帯にコールをしてもやっぱり留守電に切り替わってしまう。出るわけない。
わかっているのにその行動を止める事ができない。

馬鹿にされたっていい。貶なされたっていい。声だけでも聞けるなら。
確率はとても低いけど笑ってくれたら最高だ。

inserted by FC2 system