はじまりの手紙。***02


ボクは、手紙の中のシオンに恋をしていた。
していた、いや、いまもしている、の方が正しいと思う。
気になる存在だって言葉を選んでいたけれど、それってつまり好きだってこと。
後にも先にも手紙の中のシオンは一度もボクに『好き』とは伝えてこなかった。
一番初めの手紙、『一目惚れでした』と書かれたきり。

一目惚れ。

人を好きになるということは、どういうことなんだろうか。
一目惚れ、文字通り一目見た瞬間から恋に落ちる。

『好きな人はいますか?』

貴方です。そう書きそうになって、ペンを止める。『今はいないですよ』と返事を返すと、
『もし仮にアルバさんに好きな人ができて、その相手が同性だったとしても、貴方はその相手を受け入れる自信がありますか?』
『それは同性同士の恋愛に偏見があるかないかってこと?もちろん。元々偏見はないですし。
それに、もし誰かを好きになったらもうその人のことしか考えられなくなると思うんです。例えそれが同性だったとしても』
本当は男に興味なんてない。でも嘘は言っていない。そう思いながら返事をしたら
シオンはその回答にただ一言『そうなんですか』と、返しただけだった。

ボクは、これからちゃんとシオンと向き合っていけるのだろうか。
もう一度男に興味はない。そうはっきりと伝えて、断ってしまえばよかったのに。
でも、きっと傷つける。そう考えると胸が痛んだ。
「シオン、かっこよかったな…」
ぽつりと零れた独り言。今朝、自分は乙女かと否定してツッコンだ言葉。ボクが女だったら惚れていたかもしれない。
ふと思い出す。アルバさんは寛容すぎるとピンクの髪の少女はよく口にする。そんな風に自分を思ったことはなかった。
何で今になってそんな言葉が浮かんできたのだろう。心が沈んでいるせいかな。それはきっと今朝の痴漢野郎のせいかもしれない。





翌朝、火曜日。ボクは重い足取りで家を出た。最寄駅まで歩いて五分の所に家があるのは便利といえば便利だ。
私鉄だから駅自体はそんなに大きい駅ではない。エレベーターがあるわけでも階段があるわけでもない。
相対式ホームで改札を通り数十歩歩けばすぐにホームだ。そして駅前にある赤い郵便ポスト。手紙はいつもここから投函していた。
シオンは、知っていた。ボクがここから手紙を投函していたと。何で今まで気が付かなかったのだろう。
シオン程の目立つ容姿なら一度や二度見掛ければ印象に残りそうなものだけど。
しかしそんな考えも吹き飛ぶほどボクは目の前の青年を見た途端溜息が漏れた。
「人の顔見るなり溜息とはいい度胸ですね」
「…………」
三日連続だ。三日連続この顔を見ることになるとは。無視したいところだがそうするわけにもいかない。それに、昨日のこともある。
「……あのさ、電車通勤なの?」
見りゃわかるだろうと自分にツッコミたくなるがぐ、っと堪える。歩きながら二人して他の客に紛れて改札口へ向かった。
「ええ」
「じゃあ、ボクがこの時間に電車に乗るの、前から知っていたとか…?」
「ええまあ知ってはいましたけど毎日ではありませんよ流石に。ストーカーですか。時たま見かけてはいましたけど。
でも今日は貴方に一言文句を言いたくてこの時間帯を選んだんです」
「なんだよそれ…」
左手で左肩に掛けた鞄から定期を取り出してピ、と音が鳴り自動改札を通る。あ、しまった左で取ってしまった。
右で使うように慣らしていたが利き手は左なのでつい左で取ってしまった。
「今度オレ以外の奴に尻を触らせたら鉄バッドで尻叩きの刑です」
「何それ怖い!!」
「あんなおっさんにケツ触らせるなんてどんだけガード緩いんですか。馬鹿なんですか?ああ、すみません!馬鹿だったんですね」
「酷い!!ボク被害者だよ!?ちょっとは労ってよ!!」
「うわっ自分で労ってとか言っちゃったよこの人」
シオンにブフーと笑われて。ボクは早歩きでホームへと続く数段しかない階段を上った。
「結構ショック受けたんだからな!?」
「とかなんとか言って元気じゃないですか」
「元気じゃないよ!!昨日の痴漢のことといい、シオンのことといいおかげで今日も寝不足だよ!」
ホームにはたくさんの乗客がいる。あまり広いホームではないので人が後ろに四人ほど並べば通路を塞いでしまう。
会話をしながら二人してホームを少し歩き、列の二番目に並んだ。できればいつも乗り降りする車両は避けたいので別の場所を選んだ。
「元気じゃないんですか?」
「元気に見えるの」
「…………」
シオンは黙ってしまった。表情を伺えば考え事をしているようで。あ、もしかして、ボクが落ち込んでいないか心配してくれた…?
今日ボクに会いに来てくれたのは昨日の痴漢騒動を気にしてくれて?そう考えていたらシオンの目線が動いてばっちりと目が合ってしまい、ボクは慌てて逸らし前の人の背中を見た。
「─…あ、えっと、まあショックはショックだし、腹は立ったけど別に女の子みたいに泣く程のことじゃなかったし、ただ恥ずかしかったというか…」
「そうですか」
「そうだよ」
はい、会話終了。そんなタイミングを見計らって駅員の電車が到着するアナウンスが入る。
もしかして心配してくれた?声に出して聞いてみたい。
「あ、あの、シオン…」
しかし電車はホームに入ってきてしまい、ボクは開いた口を閉じた。続けて乗客に紛れて乗り込んだ。相変わらずの満員電車だ。
空いたスペースに滑り込むように吊革に捕まる。左隣にはシオンが立った。そして、周囲を見渡す。少なくとも昨日見かけたあの男はいない。
ボクはほっと胸をなでおろした。車両は昨日とは二つ後ろの場所にしたけれど、もし他の駅から乗り込んで来たら嫌だなと思う。
降りる場所はその駅によってベストポジションな場所があるので本当は車両を変えたくはないのだが仕方がない。
でも今日はシオンが隣にいてくれる。隣に知り合いが立っていてくれるだけでこんなにも心強いんだな、と思ってしまうボクは現金な奴だ。
窓の向こう側の景色はゆっくりと、次第に早く通り過ぎて行く。混雑している車内で流石に会話をする気にはならなくて。
結局心配して会いにきてくれたのかどうか聞きそびれてしまった。でも何か、話した方がいいのかな。気まずいというよりかは緊張しているのか、ボクは。
吊革に手が届いたけれど鞄の中にある携帯を取り出して見る余裕はない。
「そんなに固まらなくても大丈夫ですよ、乗換しますから次の、次の駅で降りますし」
「べ、別に固まってなんか…」
「嘘ですけど」
「嘘かよ!!」
思わず大きな声でツッコンでしまい、周りの視線を浴びて肩身が狭くなった。シオンはくくくと笑いを堪えている。
てか途中下車するのはボクの方だ。後二駅通過したら乗換のために電車を降りる。ああそういえば昨日急遽降りた駅もそこだった。
ボク達はお互いに会話をすることもなく電車はあっという間に目的の駅に着いてしまった。ホームに入っていく車内。長い様で短い時間だった。
「……じゃあ、ボクここで降りるから」
ボクは目の前の荷物置き場から鞄を取って降りる準備を整える。
「アルバさん」
ちらりと隣のシオンの横顔を見る。彼は前を向いたままだ。そしてボクの方へ少し顔を動かす。赤い瞳と目が合って。

「真剣に考えて欲しいんです。オレのこと」

一瞬何を言われたのかわからなくて。数回瞼を瞬きさせた。近くで自動ドアが開く音がして。
「ほら、さっさと降りないと」
「え、あ、」
他の乗客の迷惑になるわけにもいかず、ボクは降りる人の流れに混じり駅のホームに出た。
発車の音楽が流れて、自動ドアが閉まる。数歩歩いて他の乗客の邪魔にならないように移動する。
今しがた自分が乗っていた、ゆっくりと発車していく電車を目で追っていた。もうシオンの姿は確認できない。
ボクは動けなかった。ただ呆然とホームで立ち尽くしていた。



***



酷い一日だった。授業中は常に注意力散漫で、体育の授業はバスケで顔面にボールが当たって鼻血は出るわで散々だ。
同じクラスの友人、フォイフォイには「何朝から魂抜けきった顔してやがるんだ」と突っ込まれ、そのフォイフォイと実は良い感じの
同じクラスの女子ヒメちゃんにまで「アルバくん、大丈夫?」と心配される始末。ボクは寄り道もせずに真直ぐに帰宅して部屋で溜め息を吐いて現在に至る。

それもこれも全ての原因はシオンにある。

これから学校に行く人間に吐く言葉じゃない。あんなことを言われれば嫌でも一日中頭から離れなくなる。
もしわかってて言ったとしたらシオンの性格に問題ありだ。手元に置いておいた携帯を手に取り見てもメールの新着メッセージはなし。
シオンと顔を合わせて今日で三日目。手紙のやり取りは途切れたままだ。
もう、手紙を送ってくることはないのだろうか。リアルで会ってしまったんだ。お互いに電話番号もメールアドレスも知っている。

真剣に考えて欲しいんです、オレのこと。
一目惚れは本当ですよ。
全力で落としにいきますのでそのつもりで。

今日で何度目だろう。この言葉を思い出したのは。いっそのこと「男に興味はありません!」と
もう一度はっきりと伝えてしまえばすっきりするのかな。そう考えるのも今日で何回目だ。
でも、何か心にひっかかる。もやもやしていて自分でも上手く表現できない感情だ。
シオンのことは、嫌い、ではない。シオンはシオンだ。こうしてまた考えを巡らせる。
でも結局は手紙の中のシオンに恋をしている結論に繋がってしまうのだ。
でもそれは今の、現実のシオンを見ていないことになる。そこまではちゃんと自分でもわかっている。
これから先シオンとどう接していけばいいのか本気で悩む。もしまた明日駅で鉢合わせしたらどんな顔すればいいのかわからない。
と、思ったら着信が鳴って。メールだ。シオンから。表示がまだ登録したばかりの「シオンさん」のままだ。

『今日一日オレのことで頭が一杯だったでしょう?』

「やっぱりわざとだったのかよ!!」
メールにツッコミをいれてどうする。そして何事もなくメールの続きが書いてあって。
『それと今度の日曜日は空けておいて下さい。連れて行きたい場所があるんです』
不安が過る。どこに連れて行くつもりだ。
『どこに連れて行くつもり?』
ものの数分で返信が来る。
『大丈夫ですよ、変な所ではありませんから。昨日オレと一緒に会ったあいつ、クレアが貴方を紹介しろとうるさくて…
だからオレ達の事務所へ招待しようかと。といってもあいつの自宅なんですけどね』
そういえば、昨日遊びに来てねと言われて名刺をもらったんだっけ。やっぱり彼がシオンの友人だったんだ。
『あと、痴漢のこと、本当にトラウマになっていませんか?ずっと気になっていました。傷ついたんじゃないかと心配しています』
最後の文面に目を見開いてどきりとした。このメールを読んでいると改めて手紙の中のシオンと男のシオンは同じ人なんだなって認識させられる。
シオンって文章になると雰囲気変わるよな。まだ顔合わせをして日は浅いけど、面と向かってじゃこんな発言絶対しない気がする。
『ありがとう、本当にもう大丈夫だよ』
そう返してやれば。
『よかった』
たった一言にボクの心は揺さぶられる。勝手にシオンの笑顔が脳裏に浮かんで慌てて小さく頭をぶんぶん左右に振った。
何を思い出しているんだボクは。
「……よかった、か」
ああでも、あいつ、笑うと結構………好きかも、しれない。



***



日曜日。今日は約束の日、というかほぼ一方的に告げられた日だが、今朝シオンから連絡があり昨夜は忙しくて終電を逃しクレアさんの所に泊ったらしい。
シオンは最寄り駅まで迎えに来てくれると言ってくれたのだが断った。子供じゃないんだ。住所が分かれば自分で調べて行ける。
名刺の住所を頼りに調べて降りた駅は近くに商店街があり、すぐ路地を入れば住宅街に入ってしまうような場所だった。
携帯で地図を見ながら街を歩いていく。五分ほど歩いた頃だろうか。あるマンションの前で足が止まった。住所はここの三階の一室になっている。
そんなに大きなマンションでもないし入口にセキュリティとかもないみたいだ。ボクはマンションの中に入り、自動ドアが開く。
中にずらりと並んでいるポストに目を通す。302号室にクレアさんの名前と会社の宛名が入っていた。
それを確認し、ボクは目的の部屋に向かった。それにしてもクレア、か。あの「クレアシオンのおはなし」の作者と同じ名前だ。偶然だな。
エレベーターに乗り込み目的の部屋の前でインターフォンを押した。しばらくして中からはーいと明るい声が聞こえてきて。
「いらっしゃーい!」
玄関を開けて出迎えてくれたのはこの間の茶髪の青年、クレアさんだった。今日はスーツではない。ベージュのシャツに紺のジーパンとラフな服装だ。
「お、お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ室内に入るとまず目に飛び込んできた壁は白一色で小さな子窓には緑の、なんだろう。
植木には詳しくないけれど緑の葉っぱが透明のグラスの中に活けてある。廊下を通り通されたリビングは結構広い。奥には来客用なのか
大きなテレビ、なんインチあるんだあれ。と、オシャレな黒のソファーとガラスのテーブルがあり、キッチンの前にはこれまたオシャレな四人掛けでオーク色の
ダイニングテーブルと椅子があった。なんというか、自宅兼事務所と聞いていたがあまりそんな感じはしない。
「あっちの奥の部屋を仕事場として使ってるんだ、ごめんね、シーたん居るには居るんだけど今ちょっと電話してて、
すぐ戻ってくると思うよ。何飲む?コーヒー紅茶緑茶とあるよ。冷たいのも温かいのも。適当にそこ座ってね」
「あ、いえ、おかまいなく」
「遠慮しないの!お客様なんだから」
「あ、ありがとうございます…えっと、あのそれじゃコーヒーで」
「りょーかい!」
ボクはダイニングテーブルに座って大人しく近くのキッチンでお茶を用意してくれているクレアさんを待っていた。
「お砂糖とミルクいる〜?」
「あ、はいお願いします」
しばらくしてクレアさんが白いティーカップにコーヒーを淹れてくれた。コーヒーの香りが湯気と共に鼻を通る。良い香りだ。
クレアさんは空色のマグカップを右手に持ってボクの正面に座った。ボクと目が合うとふわっと微笑んだ。
「これインスタントなんだけどオレ結構好きなんだ〜」
「お前の舌は安い舌だな相変わらず」
シオンの声にボクは視線を動かした。パタンと奥の部屋の閉まる音がして。シオンが仕事部屋から出てきたのだ。服装は上から下まで全身真っ黒。黒が好きなのかな。
「シーたん!電話終わった?」
「見りゃわかるだろ、ああいい、自分で淹れる」
クレアさんが席から立とうとしたがシオンはキッチンに入っていった。
「それにしてもアルバさん、ちゃんと迷わずに来れたんですね、偉い偉い」
なんてシオンはキッチンにいながら話しかけてきて。
「馬鹿にした!?ねえ今馬鹿にしたよね!?てか会っていきなり第一声がそれかよ!」
「え、だってアルバさんだし」
「言っとくけどちゃんと脳みそ入ってるんだからね!?」
「別にオレ何も言ってないんですけど」
シオンは黒のマグカップを右手に持ってキッチンから出てきた。テーブルにはつかずクレアさんの隣に立ったままだ。
「可哀相なものを見る目をするな!!」
ああいえばこういう。ボクは目の前のコーヒーを一気に飲んでカップを置いてカシャン、と音が大きくなってしまった。
「はいはーい!オレもアルバくんと話させて〜!」
「あ、ごめんなさい!まだきちんとご挨拶してなかったですよね!アルバです!あれ、でもボク名乗りましたっけ?」
「アルバ君のことはシーたんから聞いてたからもう会うの楽しみで!前は急いでたからちゃんと話できなくてごめんね。ええと、改めて宜しくね!」
「は、はい!」
聞いていた、という所が気になったけどまあいいか。クレアさんって明るくて話しやすい。とても親しみやすい人だ。シオンは特に口を出さず、コーヒーを飲んでいた。
「あ、そーだ。聞いたよシーたん。取引先の営業の女の子に食事に誘われたんだって?この前打ち合わせに行った会社の女の子も
明らかにシーたんとお近づきになりたい感じだったよね。シーたんホンット、女の子にモテモテだよな」
あ、やっぱりもてるんだ。
「興味ない」
「まあそうだよね、だってシーたんは、ねえ…」
にやにやしながらクレアさんがちらりとボクを見て。
「?」
次の瞬間クレアさんの腹にシオンのパンチが思いっきり入った!クレアさんはテーブルに身を倒しうおおおおとうめき声と共に沈んでいく。
「だ、大丈夫ですか!?」
「う、うん平気。…慣れてるから…」
「慣れるものじゃないですよそれ!?」
「オレが好きなのはアルバさんだ」
ドクン、と大きく心臓が飛び跳ねた。
「な、なんっ…」
何でボクの心臓は簡単に反応するんだ!そしてこの男はどうして普通の会話の流れでさらっとそういう発言をするんだ!
「おお珍しい。シーたんがはっきり発言してふごおお!!」
次は頬にビンタされた。
「なんでぶったの!?」
「そこに顔があったからむかついたんでつい」
「ひどい!」
シオンってクレアさんにも容赦ないんだな。と、同時に誰かの携帯の着信が鳴る。ボクのものではない。どうやらシオンのようだ。
「すみません、少し席外します。──もしもし。はい、いえ、大丈夫です」
シオンは携帯に出ると話ながらリビングの先にある、バルコニーに向かって外へ出てしまった。正直シオンにどう反応していいかわからなかったし、助かった。
「アルバ君はすごいねえ」
「え?」
クレアさんは右手出で頬杖を付きながらシオンがいるバルコニーの方を見ている。
「あんなシーたん初めて見たよ」
「どういう意味ですか?」
「ここだけの話、結構素直じゃないんだよ、あいつ。口より先に手が出ちゃうタイプでさ」
「ああえっと…それ、わかります」
あの手紙の中のシオンを知っているからこそ余計にそう感じる。
「あんなにはっきり好きとか発言できるなんてねえ、いやあシーたんも成長したな、うんうん」
クレアさんは何かを納得しているように首を小さく上下させて。でもボクにはよくわからなかった。
「で、アルバ君はシーたんをどう思ってるの?」
クレアさんはにやりと口元をあげた。
「え!?」
「ああ、オレ知ってるから。シーたんがアルバ君のこと好きで告っちゃったこと」
「そ、そう、なんです、か…えっと、あの…ボクは…」
「嫌いじゃないんでしょ?」
「え、えっと、はい…まあ…」
ボクはそれきり口を閉ざし俯いて、空のコーヒーカップの底を眺めた。どうしよう。何て答えていいかわからない。
「そ、そんなことよりクレアさんは好きな人とかいないんですか?」
「オレ?気になっている子はいるけど、まだ駄目なんだ。こうみえて将来の夢は可愛いお嫁さんもらって結婚することなんだけど」
「いいじゃないですか!素敵な夢ですよ!」
何とか話題を逸らさなければ。
「まあ、当分叶いそうにないけどね」
クレアさんはあはは、と笑い飛ばした。
「どうしてですか?」
「歳が結構離れてるから、まだガンガンアプローチはできなくて」
クレアさんは少し両目を細めて口元の端を上げた。何か思い出しているような、大人の顔つきになった彼に少しだけ驚いた。多分、その思い人を思い出していたのかもしれない。
「いつかその想い届くといいですね」
「ありがとー!応援してね!」
クレアさんはまたふわりと笑った。
「あ、あとあの、お話変わりますけど、お二人って何の仕事をしているんですか?」
我ながら強引な方法だと思う。けれどなるべくシオン絡みの話題は避けたかった。
「オレ絵本作家なんだ〜」
クレアさんは得意気だ。
「絵本、作家…?」
脳裏にクレアシオンのおはなしが過る。作者の名前は「クレア」。いや、まさか。そんな偶然。別の意味で心臓がドキドキと高鳴り始めた。
「元々お話書いたり、絵を描いたりするのが好きでね、でもそれ以外のことはからっきし駄目で、営業とか事務とか全部シーたんにお任せしてるんだ。
そのせいでシーたんにしわ寄せいっちゃうから忙しくさせて申し訳ないって思うけど」
「あの、クレアさん。お願いがあるんですけど…」
「なあに?」
「その、仕事場って見せてもらってもいいですか?少し興味があって」
「うんいいよー!おいでおいで」
ボクらはギイ、と椅子を引いて立ち上がるとクレアさんに続いて仕事場と言われた部屋のドアの前まで移動した。
ちらりとバルコニーを見ればシオンの背中が目に入りまだ電話をしているようだ。部屋の一歩手前、緊張が走る。
クレアさんが先に部屋に入り、ボクもそれに続く。そしてドアの向こう側に広がっていた世界に目を奪われた。
デスクは二つあり一つはパソコン一台と書類が山積みになっている。もうひとつは絵を描くための作業台だろう。
こっちはこっちでかなりごちゃごちゃしていた。絵具や筆が乱雑に置いてあり、小箱が三つも四つもあってその中に絵具達がたくさん入っている。
部屋の隅にはキャンバスも立てかけてある。仕事場、というよりアトリエのようだ。
そして白い壁一面には、あるイラストがたくさん貼ってあって。ボクは興奮する気持ちを抑えきれなかった。
だってそのイラストは、ボクにとってはとても馴染みのあるイラストだったからだ。

「…クレアシオン…クレアシオンだ…!!」

「あ、嬉しいな!アルバ君知ってるんだ〜」
「じゃあやっぱりクレアシオンの絵本を描いているのは…!?」
「うん、オレだよ」
なんてクレアさんは普通に言った。
「〜〜〜〜〜!!!」
言葉にできない感動と興奮が全身を駆け抜けた。だって、目の前にあの絵本の作者がいるのだ。今ボクの目の前に!クレアさんは不思議そうにボクを見ている。
「あ、あああのごめんなさい!ボクすっごくこの絵本のファンなんです!!うわああそうじゃないよ!!はるのおはなし買いました!読みました!サイン下さい!」
「本当に!?ありがとう嬉しいよ!オレのサインでよければ何枚でも書いちゃうよー!」
「ありがとうございます!!ああでも色紙とか何にもないよ持ってないよ!どうしよう!」
「アルバくんアルバくん、落ち着いて。確か色紙余ってたのがあるからそれあげるよ」
じわじわと顔に熱が集まる。相当自分がテンパっていた証拠だ。は、恥かしい。
「……あの、すみません。その、クレアさんルキちゃんって女の子ご存知ですよね?ボク、彼女とは近所で小さい頃から知ってて…クレアさんの絵本のことはルキから聞いて…」
「もちろん知ってるよ!!それならオレもルキちゃんの知り合いの子で高校生男子でオレのファンがいるって聞いてたんだけど、もしかしてアルバくんのこと!?」
「うわああああああ!は、はい!そうです、多分、いや、それボクです!!」
やばいどうしようすごく興奮してる。ぐるりともう一度壁一面のクレアシオンのおはなしの絵を見る。
そこには見たことがない絵が何枚かあった。クレアシオンの肩に茶色い、一羽の小鳥が止まっていた。
その隣にはクレアシオンがその小鳥に話しかけている一枚のイラストがあって。未発表のイラストか、それともこれからのおはなしの中の一枚なのだろうか。

「へーえ、クレアのファンだったなんて知りませんでした」

「「シーたん(シオン)」」
いつの間にかシオンが電話を終えてこちらの部屋のドアの前に立っていた。浮かれていた気持ちが一気に冷めていく。
気のせい、ではないよな。なんか、すごい睨まれてるんですけど。
「ねえねえそれより聞いてよシーたん!アルバ君、ルキちゃんと知り合いだったんだって!」
そんなことを気にも留めずクレアさんはシオンに話しかけた。
「へえ、そうなんですか。まあ、確かに近所ですからその可能性もありますよね」
「シオンもルキを知ってるの!?」
「ええ、元々あいつの親父さんと面識があるんですよ」
し、知らなかった。世間って狭い。
「すごいね!!偶然だね!!いや、偶然ではない全てのことには必然なんだ!」
「お前最近その言葉覚えたんだろ。得意気に使うな」
「あ、ばれた〜?」
「ばれたーじゃないだろう…ああそうだ、さっきの電話の件なんだが、雑誌の取材の依頼が二件入った。どうする?」
「あ、ひょっとして一昨日行ったところも?」
「ああ、実は─」
どうやら先程の電話は仕事絡みだったようだ。ボク、側で聞いてていいのかな。雑誌の取材の話をしている。
それにしてもシオンとクレアさんって全く正反対の性格なのに仲いいよな。だから返って上手くいくのかな、この二人。
打ち合わせにしても仲よさげに話をしている。蚊帳の外は仕方がない。だって仕事の話だし。でもそんな二人をしばらく見ていたら、胸の辺りがもやっとして。
………もや?
「アルバ君?」
「何阿呆面してるんです」
ボクは感じた胸の違和感を心の隅に追いやって、二人に笑いかけた。
「な、なんでもないですよ!てか阿呆面なんてしないわ!!」
「え…その顔、阿呆面じゃなかったんですか…」
「真顔で言うなー!」
こいつ、ボクと話す時はいつもこの調子だ。
「……ねえアルバ君、気になってたんだけどその敬語、オレには崩してくれないの?クレアって呼び捨てにしてくれてもいいんだよ?」
「ええ!?い、いや、そんな、あの、あのクレアさんを呼び捨てとかできませんっ!」
「えー気にしなくてもいいのに」
「ボクが気にするんです!」
ただでさえ驚きの連続だというのに、いくらシオンの友人だからといってそんな恐れ多いことできない。
「そうです、クレアのくせに生意気ですよ」
ああまたクレアさんシオンに頬ぶたれた!
「……シーたん、大人気ない」
「うるさい黙れ」
クレアさんが頬を撫でながらじと目でシオンを見ていた。
…あれ、待てよ。シオンとクレア。クレアとシオン。クレアシオン……
「あああああああ!??」
「うるさい」
今度はボクがシオンに一発脇腹を殴られた。うおおおおボクにまで容赦ない。初めて殴られたけど何これ結構マジで痛い。目尻に涙が浮かぶ。
「何いきなり奇声あげてるんですか。気色悪い」
「だ、だって、あの、クレアシオンの名前って二人の名前だって気がついて!」
「ああうん、そう。オレとシーたんの名前を合わせてクレアシオン!それにね、元々この名前を考えたのはシーたんなんだ」
「え?」
「クレア」
シオンのワントーン低いその声は相手を窘める様な、そんな風に聞こえた。顔も目も笑っていない。鋭い目つきだ。
「撲殺と刺殺どっちがいい?」
「どっちも遠慮します!!あーあーえっとアルバ君、もしよかったらなつのおはなし、読んでみる?もう描き上がってるし本当はいけないんだけど」
「え!!」
なんだか誤魔化された気がしないでもないがボクはクレアさんの発言に興味をそそられた。なつのおはなし。あの、はるのおはなしの続き。
読みたい。すごく読みたい。でも。
「……いいえ、それは、発売日まで楽しみに取っておきます」
「いいの?」
「はい。だってボクだけずるをして、先に読むわけにはいきませんから」
とても気になるけど、発売日まで楽しみに待っている子供達もいるんだ。
「いい子だねえアルバ君は」
「いいえ、そんな…」
そんな風に面と向かって言われると恥かしい。
「馬鹿ですけどね」
「ホンット余計なひと言が多いんだなお前は!」
「ああそうなんですよ。オレもなんで貴方なんか好きになったのか自分でも驚きで」
シオンは大袈裟に首を左右に振りながら溜め息を吐いた。
「なんでそんな冷めた顔でそんな台詞吐けるんだよ!ああもう!この際だからはっきり言うけどボクは男にはきょ、興味ないんだ!女の子が好きなの!!」
「知ってます」
「だったらなんであんなこと言ったんだよ!?」
「もちろん、貴方に意識してもらうためです」
「な、な、な、」
嫌だ。やめろ。なんで顔が熱くなるんだ。そんな反応を見透かされた様にシオンはにやりと笑う。
「興味がない、と言いながらオレには十分効果があったんじゃないかと思っているんですけど」
「〜〜〜〜っ!!ちょっと失礼します!!おトイレ借ります!!」
「あ、場所わかる?リビングの─」
「大丈夫です!」
ボクはバタバタと逃げるようにその場を後にした。急いでリビングを出て廊下に出る。ずるずると近くの白い壁を背にしてその場にしゃがみ込んだ。
あれ以上あそこにいたら何を言われるのかわかったものじゃない。そうだ、逃げたのだ。まだ顔が熱い。何が効果があっただ。あり過ぎだ。馬鹿野郎。
くっそ、結局振り回されて、踊らされているのはボクの方じゃないか。少し気持ちを落ち着かせて、戻ろう。
…ああもう、何をやっているんだボクは。なんのために、わざわざここまで来たんだ。





「本当にいい子だね、アルバ君」
しばらくしてリビングに入るとそれはすぐに耳に届いて。クレアさんの、声だ。仕事部屋の方から聞こえてくる。
ああやばい。盗み聞きするつもりはなくても耳はそちらの方に傾いて。足はゆっくりと声がもっと届くようにとドアのすぐ近くまで動いていく。
「今頃シーたんのせいで頭ぐるぐるしてるよあの子」
う、見抜かれてる。
「…………」
「アルバ君がクレアシオンのはなしを知っていたなんて、偶然かな。それとも運命かな」
「何臭い台詞吐いてやがる」
「でもオレ本当にびっくりしたよ。シーたんがあんなにはっきり好きだって意思表示するなんてさ」
どういう、こと…?シオンはシオンで黙ったままだ。
「ああ、オレも自分で自分に驚いてる。オレの性格、お前が一番良く分かっているようにな」
「そりゃそうだよ。何十年付き合ってきてると思ってるの」
その声には笑いが含まれているようで。
「本気なんだね」
「ああ」
ドクン、と大きく心臓が脈打った。間が少し空いて。

「……初めてなんだこんなこと。けど、あの人といると、あの人と話しているだけで楽しいな、って思えて」

なんだよ、なんなんだよそれ。なんでそんな嬉しそうな声で話すんだ。嫌だ、なんでまたこんな、ドキドキと高鳴っているんだ。顔だって熱い。
「うわあ、今日はえらい素直だね!気持ち悪い!」
「クレア、お前は本当にいい友達だったよ、さようなら、お前のことは忘れない」
「ちょ、ほら、オレぼこぼこになってたらアルバ君戻ってきてびっくりするよ!?」
「大丈夫大丈夫」
「ちっとも大丈夫じゃないよ〜!!」
流石に戻らないとまずい状況だ。ボクはぎゅ、と下唇を噛み締めて。軽く音が響かないようにパチンと自分の頬を両手で挟んだ。
よし、大丈夫。いける。普通に話せばいいんだ。まだドキドキと高鳴ってはいるけれどボクは二人の元へ向かった。
部屋のドアを開けると今にもシオンがクレアさんに殴りかかろうとしている所で。
「ちょ、シオン!?何してるの!?」
「助けてアルバくん!!」
クレアさんは今にも泣きそうな顔だ。

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