ろすさんちのきつねるばくん(後編)


ろすさんちのきつねルバくんその2



1褐色の少年。



夕方、家に帰るとアルバがいなかった。オレは誰もいない部屋で溜め息を零した。またか。また脱走したのか。携帯を確認するが病院からの連絡はない。先ほど脱いだばかりの靴を履き直し探しに行こうと部屋を出ようとしたその時だ。
「ふえええええええええんんんん!!!」
間抜けな鳴き声がドアの向こう側、外から聞こえてきた。玄関のドアをがちゃりと開けてやれば、目の前に は泣きっ 面のアルバがいた。アルバはオレの姿を見るなり足元に抱きついてきた。
「ロス、ロスロス〜〜〜!!!」
「おい、こら、」
引き離そうとしたのだが思いっきりぎゅうぎゅう足に抱きついてくる。膝を折りしゃがんでやるとぐずぐずと泣きながらオレに抱きついてきた。アルバは泣き虫ですぐ泣く。だがこの泣き方は尋常ではない。わんわんでかい声を出して震える手でオレの服をきつく握りしめている。アルバの態度に妙な胸騒ぎがした。
「……何か、あったのか?」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
「アルバ?」
「ごめっひっく、ひっく」
喋りたいのに嗚咽が邪魔をして喋れないようだ。オレがぽんぽんと背中を叩いて撫でてやり、しばらく泣き止むまで落ち着かせた。まだ嗚咽はしているがおずおずとオレの顔を覗き込むとまた小さく「ごめん、なさい」と謝った。目が真っ赤に腫れている。
「どうして謝るんだ?」
「ごめんな、さい…」
「ちゃんと理由を話してくれなきゃわからないだろ?」
「いいつけ、やぶった、の、しらないひとに、ついていっちゃいけないって」
アルバの言葉に今度はオレが耳を疑った。普段から約束事として、知らない人間には付いて行くなと言い聞かせていたのだ。こいつには脱走癖がある。こんな小さな狐だ。万が一悪い大人に捕まったらどうする。何かあってからでは遅いのだ。
「知らない人間に付いて行ったのか…?」
アルバはこくりと頷いた。
「さい、しょはたのしく、おはなししてたの、それ、で、たまごやき、たべさせてくれて、いっぱいおはなしして、でも」
「…………」
「おうち、かえして、あげないって、いわれて、にげ、てきたの」
自分の眉間にこれでもかと皺が寄ったのがわかった。頭が痛い。ざっと目で確認したが特に服が汚れているわけでもない。怪我もしていないようだ。
「ロスにあえなくなったらどうする?っていじわるされ、て」
「アルバ」
ビクッとアルバの身体が震えた。
「─…他に、何も されなかったか?」
アルバは小さくこくりと頷いた。
「本当に何もされていないな?ただ話して、玉子焼き食べただけだな?」
「うん…」
アルバの瞳からはボロボロとまた涙が零れていた。
「ロス、おこってないの?」
「怒ってる」
再びアルバの身体がビクリと震えた。
「あとでたっぷり説教だ」
「ひっ!」
「とりあえず顔洗ってこい」
アルバはとたとたと洗面所には行かずキッチンの流し台の方へ行きアルバ専用の黄色い小さな台の上に乗り、ばしゃばしゃと顔を洗い始めた。オレはアルバの隣に立つと顔をタオルで拭いてやり、それから部屋の真ん中にある白の四角いテーブルの前に座らせた。大人しく正座で座っている。耳も垂れて尻尾もぺたりと床に付いている。自分 が怒られるとわかっているのだ。オレもアルバの正面に座った。これからたっぷりと説教タイムだ。もう一度しっかりと知らない人間について行ってはいけない事、食べ物を貰っても絶対に食べてはいけない事、またその理由をしっかりと言い聞かせた。大人しくアルバは聞いていた。そうしてアルバから話を聞いていくうちにどうやらアルバに声をかけてきたのは肌の黒い少年だったらしい。その少年はエルフと名乗ったそうだ。本名かどうかは怪しいが。
「─…アルバ、これでわかっただろう?知らない人間についていけば、怖い思いをするんだ」
アルバはこくりと小さく頷いた。けれど何か言いたげな、不満気な態度も顔に出していた。
「でも、エルフいいやつだったよ!いじわるされたけど、 ごめんなってちゃんとロスのところにかえし てくれたんだよ!」
「そのいいやつについて行った結果がこれだろうが」
怒っているとはっきりと伝えるため声を低くして言ってやったら目じりに涙を溜めて今にも零れ落ちそうだったがまた泣くまいかと我慢しているのか、掌で涙を拭いて鼻をすすった。
「はっきり言ってお前がオレの留守中に勝手に外に出歩くのもあまりいい気はしない。むしろ反対だ」
「で、でも、だって、ロス、おうち、いないし…」
「言い訳をするな。今回は家に帰って来れたからよかったものの、一歩間違えばもっと怖い目にあっていたかもしれないんだぞ」
「でも…」
「でも?」
じろりと睨みつけてやるとアルバはビクッと身体を震わせた。
「…ご、ごめんなさい」
「よし」
本人も反省しているよう だし、今日はこれくらいにしておくか。
オレは腰を上げ夕飯の準備を始めたが、アルバはぼーっとテレビを見ていた。
いつもならごはんごはんと騒ぐのに。流石に怒られて怖い思いもしてショックを受けているのだろう。その日はアルバの好きなハンバーグだったが殆ど手を付けなかった。





それから数日後、相変わらず脱走はするものの前のように泣きながら帰って来ることはなくなった。オレが帰宅する頃には家に居て寝てるかテレビを見ているかしていた。しかし最近気になる事が一つ増えた。アルバの食が細くなったのだ。夕飯を用意してもいらない、と言ったり一口二口食べてお終いだ。というより全然食べないのだ。始めは病気なのかと心配したがそれは ただの思い過しだった。というのも理由を聞いたらあっさりとぺらぺら喋りしだしたのだ。
「なんで食べないんだ」
「だっておなかいっぱいなんだもん」
「なんで、お腹がいっぱいなんだ?」
「うんとね、たまごやきたべてきたの」
「…どこで?」
自分の声が低くなったのがわかった。そんな変化にも気づかずアルバは話し続ける。
「エルフにあそんでもらったの!たまごやきたべてきたの!」
一瞬本気で殴ってやろうかと思ったがぐ、っと堪えた。このアホ狐は何も学んじゃいなかった。だがアルバはそいつとのことを思い出しているのか楽しそうに笑う。
「……知らない奴について行ってはいけないと言いましたよね?食べ物も食べてはいけないと言いましたよね?」
先日その エルフとやらのせいで怖い思いをしたばかりで、説教もしたというのにこの様だ。
「し、しらないやつじゃないよ!エルフはもうともだちだよ!」
「オレは知らない」
アルバはビクッと身体を震わせた。そしてすぐにむ、っとした顔になって。
「なんでロスおこるの!エルフはたまごやきたべさせてくれたいいやつだよ!」
餌付けされたな、完全に。アルバの中でその人物は怖い人ではなく、好物の卵焼きを食べさせてくれる良い人だと認識しているんだ。
「あのときないたのは、ちょっといじわるされたからだよ!あれからボクおこってるんだ!ってエルフにいったらいっぱいいっぱいごめんなさいしてくれたし、ロスのこともいっぱいきいてくれたもん!!」
「…一体何を話したんだそい つと」
「えへへ、ロスのこといっぱいはなした!ロスだいすきっていっぱいはなしたの!だってエルフがロスってどんなひとってきいくるから!こんどまたあそんで もらうの!」
なにがえへへだ!怒りだしたと思ったらオレの話題になった途端満弁の笑みでにこにことこの狐は…!!くっそ殴りてえ。頭が痛い。
「よし、今度はオレも行く。今度エルフとやらに会う時は必ずオレも一緒だ。いいな」
「?」
アルバはわかったー!と呑気に返事をしている。エルフとやらがどんな奴かは知らないが、
保護者として一言言ってやらなければ気が済まなかった。





翌日の休日。アルバに連れられて行ったのは近所の公園だった。住宅街の中によくある公園だ。滑り台にブランコに砂場。あちらこちらで元気よく遊びまわっている子供達の声が聞こえてきた。そんな公園の入り口の所に一人の少年がいた。服装は故意グリーンの長袖を着ていて紺のジーパンに黒のスニーカー。褐色の肌に黒髪の、その外見から高校生ぐらい、だろうか?恐らくこいつがエルフだろう。
「あんたがロス君かあ」
オレに気が付くなり、先に口を開いたのは少年の方だった。独特のなまりとイントネーションのある喋り方だ。君付けされたことに少し癪に障ったが。どう見てもこの少年の方が年下の様な気がする。
「ああ。お前がエルフか?」
「そうや」
流暢な関西弁だ。
「エルフー!」
アルバはとことこと元気良くエルフに近寄った。
「おう、アルバさん。今日も元気やなあ」
アルバ、さん?なんでこんな子供にさん付なんか…
「この前はうちのアルバがお世話になったようで」
「いやいや大したことあらへんて」
「こっちは大有りだ。お 前、高校 生か?この前こいつが大泣きして家に帰って来たんだが」
「ああそれはちょーっと悪ふざけしただけやって!ちゃんとアルバさんにも謝ったし。なあ?」
「うん!」
アルバの奴、何呑気ににこにこと頷いてやがる。
「…餌付け、いや、勝手に食べ物を与えるのは止めてくれないか?」
「なんでそんなこと催促されなくちゃいけないんや?楽しくお喋りしてるだけやのに」
「はっきり言って迷惑だ。おかげで夕飯が食べられなくなってるんだぞ」
「迷惑、ね」
エルフはにやりと笑った。その態度にイラッとしたがエルフは言葉を続けた。
「あんた、 アルバさんのなんなん?いつまでも保護者面していられるとでも思ってるん?」
「なっ…」
「いや〜すっごい惚気られたわ、アルバさんマジであんたの話しかせえへんしな」
「…何が言いたい」
「おおこわっ!おっかない顔で睨むなって。別に何かするってわけじゃないし。
…けど、もしあんたに何かあったらアルバさん、ど うなるかなあ?」
オレは目の前の少年を睨みつけた。なんだ、このガキ。にこにこと笑っているが
その笑顔の裏に何を考えているのか さっぱり読めない。不穏な空気が辺りを包み込んだ。
「泣いちゃうだろうなあ、たくさんたくさん」
「てめえ、いい加減にしろよ」
「あ!暴力はあかんて〜!」
オレはエルフににじり寄りその胸倉を掴んでやろうと右腕を伸ばしたが、それは叶わなかった。
「ねえねえみてみてー! ! おはなつんできたー!!」
いつの間にか側を離れてちょろちょろとしていたアルバがにっこりと笑ってオレとエルフの間に割って入って来たのだ。一気に場の空気が変わった。
右手には小さな名も知らなぬ白い花が握られている。思わずオレはエルフと目を見合わせた。アルバはアルバでにこにこと笑っている。
「─……なんか、もーどーでもよくなったわ」
「…ああ、同意だ」
オレは溜め息を吐き出してアルバを見た。
「ふたりとも、どーしたの?」
アルバは不思議そうに小さく小首をかしげた。
「あのね、あのね、これはロスに!こっちはエルフに!」
無邪気に笑いながら摘んできた花を手渡してきたアルバにこれ以上何も言う気にもならなくなった。




「─…で、お前は最近この辺に越してきた高校生、と」
「そそ」
とりあえず公園を出て三人で歩きながら話をした。道路側にオレ、真ん中にアルバ、その隣がエルフだ。住宅街、といえばそうだが田んぼも割と多いこの地域。車はあ まり通らない場所だがとりあえず広い道なので三人で一列に 歩いた。するとぎゅ、っとオレの右手を小さな掌に握られた。ちらりと目線を下にやるとアルバはえへへ、と嬉しそうに笑った。
「一人暮らしなのか?」
「まあね〜」
まあ家庭の事情というのはそれぞれある。深入りはしない方がいい。
「ねえ、ロス、これでロスもエルフはしらないひとじゃないよね?」
「ああまあ…そうだな、別に遊ぶなとは言わないが、夕飯前に飯は食うな」
「せやな、夕飯食えなくしてたのは悪かったわ、気つける」
「じゃあエルフとまたあそんでもいいの!?」
アルバは嬉しそうに弾んだ声だ。
「ほどほどにな」
「やったー!あのねあのねエルフはね!へんそーのめーじんなんだよ!すっごいんだよ!」
「変装?」
「ああ。まあ、趣味みたいなもんで な。ちょっと待っててな」
エルフは 歩みを止めるとオレの顔をまじまじと見てきた。そしてぐるりと一周オレの周りを時計回りに回る。
「─…よし、しっかりと見たし、多分できるわ」
「は?」
エルフは顔の前に自分の両掌を広げて顔を隠した。そして掌が上下に動いた瞬間、そこにはにやりと口元を上げ笑っているオレの顔があった。
「なっ…」
「わああああああ!ロスがふたりいる!!」
「どや?完璧やろ?」
しかも声までオレにそっくりだ!!関西弁を話し、目の前に自分そっくりの顔があるのは違和感極まりない。だが辺りを見回してもメイク道具らしきものはないし、初めから持っていなかった。どうやって顔を変えた…?
「お前、今どうやって…」
「まあそれは企業秘密やけどな!マジックの応用でもあるねん!ちなみにこんなぬいぐるみもある!!」
エルフはさささ、と住宅の物陰に隠れたと思ったら怪しい人間の等身大程のでかい着ぐるみを持ってきた。誰をモデルにしたのかさっぱりわからないが金髪で鼻の辺り?というか鼻なんてないんだが一応傷みたいなものが縫い合わせてある。点見たいな目も付いている。
「どこからもってきたー!!」
容赦なくアルバのツッコミが入った。そしてエルフがいそいそとその着ぐるみを着て、両手を腰に当てて自信満々に言い放った。
「これで変装も完璧やろ!!けど前が見えない!!!」
あ、こいつアホだ。明らかに先ほどの変装の方が凄みを増していたというのに。
「おおー!」
アルバはアルバで何を感心しているのか、ぱちぱちと拍手をしている。
そしてぐいぐいと着ぐるみを着たエルフの足元をひっぱっている。
「あ、ちょ、アルバさん、それひっぱらんといて、安い素材でできてん、ああほら破けた!」
「やぶけたー!」
びりびりとそのぬいぐるみがべろんと破けて、更にアルバが引っ張るものだから見事に右半分は綺麗に破り取られ中身のエルフが半分丸見えになった。しかし破けた着ぐるみが面白いのかアルバはきゃっきゃ笑いながら尚もぐいぐい着ぐるみを引っ張った。アホだ。アホが二人いる。
「あの、ちょ、ロス君も見てないであの、助けて!!あいたっ!!」
とりあえず君付けにむかついたのでエルフを一発殴っておいた。


[newpage]

2.成長



異変に気が付いたのは何時だっただろう。あれは、真夜中だった。身体のあちこちが痛くなって骨がみしみし鳴る感覚に悲鳴をあげた。
「ロス…、たすけ、…いたい、いたい!いたああああい!!!いたいよおおお」
何度も何度も痛みを訴えて小さなボクはボロボロと涙を流した。ロスはボクを抱きしめて何度も何度も背中をさすってくれた。それからはよく覚えていないが抱き抱えられた感覚と外の風が頬にあたる感覚はなんとなく記憶にある。
後から聞かされた話ロスはボクを抱えて動物病院まで駆け込んだらしい。ようやくその痛みから解放された時、日は高く昇っていて、ボクはベッドの上に横たわっていた。上半身をゆっくりと起こすとある違和感を感じた。目線が高くなっていた事に気が付いたのだ。

そして、今でも忘れられない。大きく目が開かれて、驚愕の眼差しでボクを見ていたロスの顔が。




ボクがロスの家に来てから一年の月日が流れた。人間の成長速度より明らかに早く育ったボクは人の子で言えば十五、六歳ほどの見た目に成長していた。一度目の成長期ともなる身体の変化で一気に十歳ほどの見た目に成長し、第二次成長期でまた身体全身に骨の軋みと痛みを感じると、徐々に徐々にと今の見た目に成長した。今はまだロスより背は低いけどそのうち同じくらいになりたいなって思っている。急に大きくなったボクにロスは相当戸惑って驚いたようだけど。でも、今でもボクと一緒に暮らしてくれている。いつの間にかロスと一緒にいる生活がボクにとっては当たり前で、日常の一部になっていた。ロスの事は尊敬している。口は悪くてドSだけど優しい所もあるし、一人ぼっちになってしまったボクを助けてくれた恩人だ。色々と本当に世話になっている。

けど、うっとおしいって思う時もある。もう大きいし物事の良し悪いしの判断くらいできる。なのにロスはボクを子ども扱いしてくるのだ。この前だって、ちょっと出かけようとしただけで夕方には帰って来いって言われて「小学生かよ!!」ってイライラした尖った口調で言ってしまった時は容赦なく腹にパンチを食らった。クレアさんがよく食らっていたあれだ。ボクも見慣れている。ロスはボクが大きくなった途端遠慮なしに殴ったり罵倒したりするようになった。昔は、そんなことはしなかったのに。
それからもうひとつ。ボクは自分からロスに抱きついたり、甘えたりはしなくなった。そんなの恥かしくてできるか。でもあれだ、やっぱり帰りが遅いのは……寂しいし、むかつく。今日はバイトで残業でもしているのだろうか。壁の時計を見ればもう二十三時過ぎ。ようやくロスが帰って来たのはその数分後だった。玄関で鍵を開ける音がしてボクは急いで玄関の所までやってくると丁度ロスがドアを開けて中に入ってくる所だった。
「──…ねえ、遅いんだけど」
本当はおかえりなさい、お疲れ様って言ってやりたかったのに出てきた言葉は生意気な言葉で。ロスに殴られるんじゃないかと思ったが手は出なかった。その代わりに不快な顔 はされた。 だってロスが悪いんだ。ボクをすぐ子ども扱いするんだから。クレアさんには「アルバ君段々シーたんに似てきたね」って言われたけど、そんなことない。
昔からボクはロスが帰りが遅いと不機嫌になって不貞腐れる。自分でも治さなきゃいけない悪い癖だとわかっているのだが染みついた性格を変えるのはなかなか難しい。なんで機嫌が悪くなるか。子供の頃はロスがいないととにかく寂しくて、悲しくて、一緒にいたくてでもいなくて、泣いては腹が立っていた。この図体になれば多少は我慢できるようになったが、どうにもまだロスがいない家に一人でいるのが慣れない。だからなのか、成長した今でもロスにそんな態度を取ってしまうボクは、ボクの中で今だに子供っぽいそんな感情が残 っているせいだろう。

幼い頃、といってもほんの一年前だがそんな寂しがりやで泣き虫なボクのためにロスが買ってきてくれたクマのようなぬいぐるみのマッチ、通称クマっちは今でもボクの大切なぬいぐるみで、宝物だ。そんな事口が裂けても言えないけれど。
「相変わらず無能な狐ですね。こっちは働いて疲れて帰って来てるのに、なんですかその口の聞き方は」
「…っ」
注意された事よりもまずロスの言葉使いに一気に不快感と不安が胸の中に広がった。
「何です?」
不機嫌になった顔を思いっきり出してしまっていた。だからロスも尋ねてきたのだろう。
「…なあ、その敬語止めろよ」
「嫌です」
ロスはそう言いながらボクの横を通り抜けてキッチンの隣にある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してガラスコップに注ぐと一気に飲んだ。
「だって、前は普通に砕けて話してくれたじゃないか!!」
そう、ある日を境にロスはいきなりボクに敬語で話しかけてくるようになったのだ。
驚いた。本当に驚いた。今まで普通に言葉を崩して話していたのに。理由を聞いたらあっさりと動揺するボクが面白いから、と最低な発言をされた。その通り、ボクはロスに敬語を使われて距離を置かれた、嫌われた!と騒いでみっともなく取り乱し、泣いた。そんなボクをこの男は笑いながら見ていた。
「何マジ泣きしてるんですか」と言われた時は腸が煮えくりかえった。本当に性格歪んでる。
…まあでもマジ泣きしたのは本当でその後ちゃんと「嫌っていたら一緒に住んでるわけないでしょう、癖みたいなものですよ」と言いながら弁解してくれたけど。正直納得いかない。
「だってわざとですから」
ほらまたそうやって嫌味ったらしく笑う。
「知ってるけとなんか傷つくう!!」
「ええ、貴方の苦痛に歪む顔が見たくてつい」
「お前それ人としてどうかと思うよ!本当に!」
ボクは、敬語で話してくるロスが嫌いだ。だって腹が立って不安になるのは事実だ。ロスは最近ボクに「反抗期ですか」と言ってくる。これが反抗期かな んなのかわからないけれど、苛々することが増えたのは事実だ。
「ショック受けたんですか?」
「べ、別にそんなんじゃない!」
相変わらずの減らず口を叩いているロスだが、顔色を伺えば流石に疲れた顔をしていた。無理もない。ここの所ずっと休みもなしに昼は大学、夜はバイトだ。遅くまで起きてレポートを書いているのも知っている。
「──…ご飯、作ったよ?こんな時間だけど食べる?」
「またチャーハンですか」
ロスは再び冷蔵庫を開けて、その視線がラップをしてあったチャーハンに注がれている。
「しょ、しょうがないだろ!」
「炒め物しか料理できないですもんねー」
「食べるの!食べないの!?どっち!!」
「食べますよ、腹減ってるんですから。でも先にシャワー浴びてきます」
ロスはそう言うと奥のバスルームへと入っていった。よし、今のうちに夕飯が食べられるように準備してしまおう。ロスはシャワー早いから十分もかからずにすぐ出てきちゃうし。ケトルなんてシャレたものはないのでやかんに水を入れてコンロを回した。確かわかめスープのインスタントがあるからそれでいいだろう。テーブルを片づけて布巾で拭いて、ちょっとテレビを見ながらぼーっとして、ピーッ!とお湯の沸いた音で慌てて火を消して器にインスタントわかめスープを入れているうちにガララとバスルームの戸が開く音がして、もう出てきた!相変わらず早い。
「あーもーまたちゃんと頭拭かないで出てきて!」
下はトランクスのパンツ一丁で上は何も着ていない。タオルを首から 下げているだけだ 。
「うるさいですね、今やるからいいんですよ」
「もう…はい、お水」
がしがしとタオルで頭を拭いているロスにボクは水を手渡した。そして一番後回しにしていた冷蔵庫から冷えたチャーハンを取り出して電子レンジの中へセットした。ロスは水を持ったまま、奥の部屋へと移動した。チン、と鳴って電子レンジからチャーハンを取り出してお盆にチャーハンとスープを乗っけって持っていくといつの間に着替えたのかちゃんとズボンとシャツを着て、ラフな格好をしていた。
「ねえロス、やっぱりボクも働きに出たい。アルバイトとかなら出来そうだし」
ボクはロスの隣に座るなり早々に話しかけた。前々からずっと気にしていた事だ。
今はなんだかんだでロスの稼ぎを頼りに生活して いる。しかしアルバイトの収入だけで二人分の生活費はかなりきつい。ロスは親からの仕送もあると言っているのでそんなに心配する事じゃないとボクには言うがそれはロスのお金だ。
ロスがちゃんと管理して使うためのものだ。それに仕送りの話が本当かどうかわからない。ロスはあまり家族の話をしたがらない。お父さんもお母さんもお兄さんもいるってだけは聞いたことあるけど、それだけ。あまりしつこく聞いたら腹パンされたからそれ以上深くは聞かなかったけれど。でもせっかく大きくなれたんだ、ボクだってロスの役に立ちたい。ここまで育ててくれた恩返しがしたい。
「そうですね、食うか寝るが仕事な無能な狐ですからねえ」
「だから働きたいって言ってるだろ!」
「そもそも 戸籍もないのにどうやって働きに出るんですか馬鹿ですか。それにそんな身なりじゃ無理でしょう」
じろりとロスの目線がボクの頭の上の耳と、尻尾に注がれた。
「でも耳と尻尾は隠せるようになったんだから!それにだっ て、今のままじゃボクだって申し訳ないって思うし、これじゃまるでヒモみたいじゃん!!」
「自覚あったんですか、アルバさんのくせに!」
「ボクの事なんだと思ってるんだよお前!?」
そう、さすがにこの耳と尻尾で出歩くには限界があった。子供の頃ならまだしも今ではただのコスプレ野郎だ。なんとかしたいと試行錯誤した上よくお話の中にある変化の術というものをたくさんの本を漁りネットで検索したりと色々と試したらマジで出来てしまった。と言ってもボクの場合は耳と尻尾を隠せるだけで身なりを女性に変身!と変えたりはできなかった。いや、知らない、と思った方が正しい表現なのかもしれない。もしかしたらできるかもしれないけれど。
「でも家事とかやってくれるの で助かってますよ」
「えっ」
ロスはそれきりテレビを見ながら黙々とチャーハンを食べている。
「えへへ…」
久しぶりにロスに褒められて、嬉しい。心の中があったかくなる。尻尾をぱたぱたと左右に振ってしまい、慌てて止めた。
「にやけ顔きもいです」
「酷い!だって、嬉しいんだからしょうがないだろ!」
「…っ」
ロスは言葉を詰まらせた。あれ?顔、赤い?と思った瞬間ロスと目が合って右手が思いっきり腹にクリティカルヒットした。
「…おま、なんっ…」
うおお慣れているとはいえ痛いものは痛い。なんですぐ殴るんだよ…!!ボクは涙目になりお腹を擦りながらふとテーブルに目を向けると皿の中は空で綺麗に食べ終わっていた。食器を片づけようと手を伸ばしたと同時に、ロスと手が触れて。バチンと音が鳴り、思いっきり叩かれてしまった。ロスもばつの悪い顔をしている。
「な、なんだよ!ちょっと手が触れただけじゃないか!叩かなくてもいいじゃんか!せっかく片づけようと思ったのに!」
「……ああ、そう、ですね。すみません」
あれ?反撃しこない。いつもなら、「何触ってるんですか、気色悪い」って返ってきそうなものだけど。
「自分で片づけるのでいいですよ、もう遅いですし先に寝て下さい」
「え、あ、うん…」
ロスは空になった食器を持ってキッチンの方へ行ってしまった。叩かれた手の痛みはもうないのに、ちくんと胸が痛んだ。ボクは小さく溜め息を零して部屋の隅に置いてある畳んであった布団を敷いて、寝間着に着換えると横になった。ちなみにこの寝巻き、上下黒のストライプの入った囚人服の柄の様でふざけて前にロスが「これで貴方も囚人公ですよ!」とノリノリで買ってきたものだ。なんだよ囚人公ってボクは牢屋好きじゃないからな!?と勢いよくツ ッコンでしまったが意外と着心地がよくて悔しいことに今では愛着している。しばらくしてロスの足音が聞えて、気を使ってくれたのか電気を消して、テレビの音も小さくしてくれた。ロス、まだ寝ないんだろうな。そりゃそうか、さっき帰って来たばかりだし。
「…まだ起きてるの?」
「ええ、でももう少ししたら寝ますよ」
「……うん、あの、ごめん…」
「何がです?」
「…だって、その、生意気だったかな、って…」
ボクはもぞもぞと掛け布団を胸元までひっぱって、薄暗い部屋でロスに背を向けて壁の方へ身体を動かした。
「生意気だったと今頃気がついたんですか!?」
「心底驚いた反応するのやめて!!」
思わず振り向いてツッコンでしまった。だがロスは正面を向いたままだ。ボクは彼の背中を見つめたまま、ボフっと枕に頭を沈めた。
「──…ほら、さっさと寝て下さい。明日は病院に行く日でしょう?起きれなくなりますよ」
「う、うん…おやすみ」
「おやすみなさい」
それきりボク等は言葉を閉ざしてしまった。小さなテレビの音だけが耳に入る。ニュースを見ているのだろうか。アナウンサーがぼそぼそと喋る声が聞こえた。暗い部屋にテレビの明かりだけが浮かんでいた。彼の背中を見つめたまま、ボクは心の中で唱える。

振り向いて欲しい。おやすみ、って頭撫でて欲しい。眠る時はいつも側に居てくれたのに。
おやすみって、優しい声で言ってくれて、頭を撫でてくれたのに。

ロスの大きな手の感触が温もりがすごく嬉 しくて、安心して眠れたのに今はもう、側にいてくれない。時折、無性に甘えたくなる。小さい頃みたいにぎゅう、て抱きつきたい。抱き締めて欲しい。でも、恥かしい。それに今そんな事をしたらまた殴られてしまいそうだ。

─…ロスはボクが大きくなってしまってから、触れてこなくなった。殴る蹴るは別として。

そして極めつけは敬語。時々、目も合わせてくれない時だってある。さっきだってそうだ。少し指先が触れただけなのに叩かれて、目も合わせてくれなかった。チクンと再び胸に痛みが走る。ボクは寂しさを感じながらも眠りについた。




翌朝、ロスが大学に出かけた後、洗濯物をベランダに干してからボクも家を出た。今日は快晴。とってもいい天気だ。ボクが出かけて赴いた場所はハジマーリ動物病院。今日は月一の定期検査の日だ。と言っても聴診器当てられて胸の音聞いて少し身体の状態を調べるだけだけど。病院までの道のりは流石に尻尾と耳は隠している。今のボクはどこからどう見ても普通の人間だ。風が吹いてゆらゆらと腰の赤いスカーフが揺れて視界に入った。昔は首に巻いていたが今はロスから貰ったお古のベルトに巻いている。今でも大切なこのスカーフは肌身離さず持ち歩くようにしている。なんというか、持ち歩いていないと落ち着かないのだ。病院に着くと今日は暇なようでお客さんはボク一人のようだった。もう変装の必要もないので普段の通り、耳と尻尾を隠さずに出した。簡単な定期検査の後少し談笑する時間ができて、ボクは最近の悩みを少しだけアレスさんとヒメちゃんに話していた。甘えたいのに甘えられない。最近ロスがボクに触れてくれなくなったと言葉を濁して言ったつもりだったが女性人二人にはあっさりとバレてしまった。
「大丈夫だよアルバ君。ロスさんも少し戸惑っているだけだよ」
「そ、そうかな…」
「そうそう、いきなりでっかくなってどう扱っていいかわかんなくなっただけだって!」
「それってどういう意味ですかアレスさん!?」
「でも、ちっちゃい頃のアルバくんっていつもロス、ロス、ってロスさんにくっついて回って本当に可愛かったもんね、ロスさんの姿が見えないと、すぐ不機嫌になって泣いちゃうところとかもう!凄く可愛いくて!」
「や、止めて下さい!小さい頃の話でしょう!?恥かしいですよ!」
ボクは羞恥心に顔が赤くなった。
「甘えたきゃ素直に甘えればいいのに」
「それがなかなかできない年頃なんですよ、きっと」
まさしくヒメちゃんの言うとおりです、はい。
「まあ、その話は置いといて、そんなに働きたいならうちの病院で働いてみるかい?」
「え?」
そう提案してきたのはアレスさんだった。
「といってもうちにはもうヒメちゃんがいるから週に二、三日の四、五時間程度、掃除か受付メインになるが、それでよければ。まあ、戸籍やら保健やらその辺の手続きはなんとかなるよ」
「いやそれ駄目ですよね!?ていうかアレスさん顔がマジで悪い顔になってます!」
ボクは物騒な発言に思わずツッコミをしてしまった。
「なんせヒメちゃんのパパは超がつくほどの金持ちででっかいパイプを色々とはりめぐらせているからねえ、ちょっと上手く言えば戸籍の一つや二つなんとかなるんじゃない?」
「汚い!汚い大人の話をここに持ち込まないで下さい!」
「そうですよ!私は私!父は父です!」
「だいたいヒメちゃんがここで働いてるのってフォイフォイがこの近所に住んで…」
「いやあああああああ!!!!!」
「ふごお!!」
ヒメちゃんの右ストレートが見事にアレスさんに決まった。って見ている場合じゃない!!
「べ、べべべべつに私不純な動機で働いてる訳じゃな、ないんですよ!?」
「ちょ、ちょっとヒメちゃん!ストップストップ!殴っちゃ駄目だよ!!」
ヒメちゃんはボコデレという非常にやっかいな性格をしているためアレスさんに殴りかかったヒメちゃんを急いで止めに入った。おまけに見た目可憐な女性に見えるがとんでもない馬鹿力の持ち主で女性のアレスさん相手でも容赦なくボコボコにしてしまうので恐ろしい。ああ、アレスさん、こんなに顔腫れちゃって…初めて見る光景じゃないにしても痛々しい。
「ごごごごめんなさい!!私今すぐ救急箱と冷やすもの持ってきます!」
ヒメちゃんはばたばたと奥の治療室の中に入って行った。それにしてもアレスさん何を言いかけたんだろう。
まあいいか。さっきの話、早速帰ってからロスに話してみよう。ロスの役に立てるならなんだってしたい。


[newpage]

3.告白




家に帰ってから、掃除と出かける前に干しておいた洗濯物を取り込んでテレビを見ながら畳み一息ついた頃にはまだお昼を過ぎたばかりだった。ぐう、と腹の虫が鳴いた。何を食べよう。確かこの前特売五割引きで買った冷凍食品のうどんしかない。 でもいいや。うどん好きだし。お揚げがないのがちょっと、というかかなり残念だけど。そんな事を考えながら簡単に温かいうどんを作って昼食を取った。ふふん、料理だって炒め物だけしか作れないわけじゃないもん。ロスがいたらいたで「うどんなんて茹でるだけでしょう」って絶対馬鹿にされそうだけど。ロス、今日はバイト休みだから夕方には帰ってくるだろう。早く帰って来ないかな。話したい事が、たくさんあるんだ。

ふと、物思いにふける。

ボクにとってロスって、どういう存在なんだろう。口を揃えて周りは保護者だと言う。まあそうだよね、兄弟には見えないし。かといって友達、と表現するのはなんか違う。不思議な関係だと思う。あまり気にしたことなんてなかった。だって、ロスがいる生活が当たり前になっていたから。

…でも、最近胸の中がざわざわして、もやもやする。ロスの態度の変化が影響しているのもあると思う。けれど。ロスを独り占めしたいって思う時がある。これは小さい時もそうだったのだが、でも、今でもそう思う時がある。どこにも出かけないで。側にいて。昔みたいに優しくして。浮かんでくる言葉は我儘な事ばかり。いつもロスと一緒に居られるクレアさんが羨ましくて嫉妬した時はどうかしてると思った。

いつだったかロスに他の女の影がちらついた時も喧嘩した。断るに断れなかった合コンというやつに無理やり連れて行かれたと弁解されただけでひどく腹が立って、言い争いになって、喧嘩になった。ロスも複雑な表情をしていたのは覚えてる。嫉妬したのは歳の離れた兄のような、家族のような人だから、なのかな。ロスには幸せになってもらいたいと思う反面、ボクと、ずっと一緒にいて欲しいとも願う。この悩みはさすがに誰にも打ち明けられずにずっと心の中に仕舞い込んだままだ。聞いてしまえばあっさりと答えが返ってくるかもしれない。でも、怖い。そんな思いを抱えたまま夕方はあっという間に訪れてボクはロスの帰りを待った。




そうして夜、ロスが帰宅して、夕飯の準備をしながらボクはアレスさんの所でバイトをする件を話した。まさかそれがきっかけであんな事になるなんて、思いもよらなかったけれど。
「──それで、一応許可してもらいたいんだけど」
「別に構いませんよ。てか当然と言えば当然ですよね。今まで全部オレのおかげで生活してきたんですから」
「はっきり言われると傷つくう!!でもこれでボクも少しは生活を助けられるから!」
なによりロスの役に立てる。それだけで嬉しい。
「いえ、働いた分の給料は自分のために使えばいいじゃないですか」
「え?嫌だよそんなの。ボクはロスのために、ロスの役に立ちたいんだから」
ロスは何かいいたげな顔をしているが、あ、これ多分口にしないだろうなって思った。
ロスは素直じゃないからあんまり自分の本性を口には出さない。それくらいはわかる。
「そうですか…」
予想通り、ロスはそれ以上は何も言わずそのまま部屋へ移動するとピッとリモコンでテレビを付けテーブルの前に座った。何を話しているのか聞きとれないが、夕方のニュースが流れてきた。ボクはロスともっと話をするためキッチンから離れ、彼の側へ近寄った。
「まあいい社会勉強になるでしょう。いつまでも独り立ちできないままでは迷惑ですし」
「が、頑張ります」
「いずれはオレがいなくても、一人で何でもできるようにならないと困りますからね」
「……ちょっと待って。それどういう意味?」
自分の声が低くなったのがわかった。突然告げられたロスの言葉は、あまり気持ちのいい発言ではなかったからだ。
「どういうって、そのままの意味ですけど」
ロスは顔色一つ変えずにさらりと普通に話した。


「いつか別れはやってきます」


ドクリ、と心臓が嫌な音を一つ立てた。
「なんだよ、それ」
ちらりとロスは視線だけをボクに向けたがすぐにまたテレビの方へ向けた。
「オレは人間で、貴方は狐です」
「それがなんだっていうんだよ!」
ボクは声を荒げた。尖った物のいい方になっていた。ロスにチッと舌打ちをされてイラッとした。不穏な空気だ。
「いい機会です。この際だからはっきりと話しておきましょう。いつまでもこうして一緒にいられると思ったら大間違いですよ」
「なん、で」
「なんで?本気でオレに聞いてるんですか?そもそも貴方とオレとでは生きている時間の流れが違う」
はっきりと、ロスは言い放った。込み上げてくる感情にどうしようもなく悲しくて、腹が立った。
「何が、何を根拠にそんな事!!勝手に決め付けるな!」
「事実でしょう。普通の人間はそんなに急激に成長なんてしませんよ」
ズキンと胸が痛んだ。
「ロスは……ボクと、一緒に、いてくれない、の?」
だから、だからわざと距離を置こうとして、触れてもくれないの?敬語で話すようになったの?一緒にいたいって思っていたのは、ボク一人だけ…?
「始めから、始めからボクと、別れるつもりだったんだ……」
「アルバさん?」
「だから、だから急に余所余所しくなったり言葉遣いだって!!」
ボクの声は、叫びにも近かった。
「何でいきなりそんなこと言い出すんだよ!最近お前変だよ!」
「変?事実を話しただけでしょう」
ロスはちっとも動揺なんてしていなかった。淡々と普通に話していた。ボク一人で大きな声を出しているだけで。そんな自分がひどく惨めに感じた。
「もういい!!ロスの馬鹿!!!」
ボクは家を飛び出した。後ろからロスがボクの名前を叫んだけれど振り返らずに一目散に夜の外へと掛けていった。それからどうやってどの道を走ったかなんて覚えていない。がむしゃらになって走って、走って、走り続けた。大声で叫んでしまいたかった。溢れてくる涙を何度も何度も手の甲で拭った。拭っても拭っても出てくる涙。そうして走りまくって、とぼとぼと歩いて、気がついたらボクはあの場所にいた。ロスと初めて出会った、近所の駐車場に。ここって、こんなに小さかったっけ。車を止められるスペースは5台の小さな駐車場。あの日、ボクはお父さんとお母さんとはぐれて、いつの間にかこの場所で一人でぐずぐず泣いていた。それこそどうしてこんな住宅街の駐車場なんかにいたんだか。よく覚えていない。ただ怖かった。怖くて寂しかった。ロスが助けてくれなかったら、野たれ死んでいたかもしれない。大きくなってそれなりに行動範囲が広くなったボクは一度自分が育った山へ帰りたくて両親を探そうと何度か近くの山に入り探したけれど、結局見つからなかった。

ロスの車、止めてある。まだ、家にいるのかな。ここから家は目と鼻の先だが帰り辛い。時々、ロスの車に乗せてもらって、遠出をするのが楽しみだった。ボクの特等席はいつも助手席で。運転しているロスは黒ぶちのメガネを掛けて、なんだかいつものロスと違って見えて、かっこよくて。自分でゆらりと揺らした尻尾の存在に気がついて、ボクは両耳を動かした。ああ、そうだ。いつの間にか尻尾も耳も出したままだ。そのまま飛び出してきちゃったんだった。通りすがりの人に…不審者って思われたかもしれない。誰かとすれ違っただろうか。よく、覚えていない。


”いつか別れはくる”


ロスの言葉が重く突き刺さり胸が痛んだ。また勝手に涙が出てくる。嫌だ。ロスと離れ離れになるなんて絶対に嫌だ。ずっと一緒にいたい。なんでこんなに胸が苦しいの。なんでこんなに勝手に涙が出てくるの。こんなにボクって女々しかったのか、とまた涙を手の甲で拭った。ロスの罵倒は今に始まった事じゃない。酷い言葉だって平気で投げつけられるし、殴られるし蹴られるし散々だ。それに対してボクがツッコミをして。でもそれがボク等のコミュニケーションの一つだった。どうしてロスは変わってしまったの?ボクが大きくなってしまったから、変わってしまった。もう、あの頃のような関係にはなれない。このもやもやした感情はいったいなんなの。

ボクはただ、ロスに、笑って欲しい。
もっとたくさん幸せになって欲しい。
もっとたくさんボクを見て欲しい。
ロスとずっと一緒にいたい。
ロスだけの特別になりたい。

はたりと気がついて。一つの答えがぽつり、と心の中に浮かんだ。
「そっか。そうだったんだ…」

ボク、ロスのことが、好き、なんだ。

家族でも友達でもない。普通の好きとは違う、特別の好き。 そう思ったらすとんと心の中に痞えていたものが取り除かれたようでひどく納得してしまった。だって、そうすれば全ての感情の辻褄が合う。一緒にいたいと願うのも、離れたくないと願うのも、それは誰よりも彼の事が…

好きだから。

ずっと一緒にいてくれるものだと勝手に思っていた。
一緒にいてくれることが当たり前だと思っていた。
でも。ロスは、違うの?
嫌だ、何も考えたくない。胸が痛い。


「アルバ!!」


聞き慣れた人の声にボクの身体は大きくビクリと反応してしまった。今一番聞きたくて、聞きたくない人の声。ボクは溢れていた涙を拭い、ゆっくりと後ろを振り返った。そこには肩で息をしているロスが立っていた。額には汗が浮かんでいて、足元はいつものスニーカーじゃなくて、サンダル履いてた。それだけでも慌てて飛び出したボクを必死に探していたということがわかって、胸が締め付けられた。あ、やばい。何だこれ。胸が苦しい。痛い、嬉しい。
「ロ、ス…」
息を整えて、ロスはボクの前にやってきた。
「…探しましたよ」
ボクは、何も言えなかった。何も言えずただ俯いて、自分の両足と、靴を見ていた。
「……すみませんでした。オレも、言い過ぎました」
「うん…」
「帰りましょう」
何を話していいのかわからず、沈黙が続いた。ロスは、何も話さないボクの反応を伺ってはいるのだろうが、黙って待っていてくれた。


『甘えたきゃ甘えればいいじゃないか』


嫌だ。
嫌だ。
離れたくない。
側に居たい。


ボクは、正面からロスに抱き着いた。思いっきり。ロスの顔は見えないけれどきっと、驚いているだろうなって思った。その証拠にロスの身体が抱き着いた瞬間ビクリと震えたのだ。
「嫌なんだ、ロスが、ボク以外の誰かの所にいっちゃうのが」
声が震える。手も、震えている。
「何を、突然」
どうしよう。気持ちが抑えられない。溢れてくる感情の波がボロボロと零れてしまいそうだ。
ボクはロスから身体を離し、戸惑いながらもロスの真っ赤な瞳を見つめた。
「ロスは、ボクと別れるつもりだったの?いつか、ボクから離れて行くつもりだったの…?」
ロスは苦い顔をした。そして。
「…いつまでも、この生活が続くと本気で思っていたんですか?」
「そんなの、ボクは嫌だ。ボクはずっとロスと一緒にいたい。ボクが狐でロスが人間?それがなんだっていうんだよ!そんなの関係ない!だってだってボクは…!」
ボクはもう一度、ロスに抱きついて。彼の肩越しに小さく息を吸って吐いた。
「…昔、ずっと一緒だって言ったこと、覚えてる?」
「……ええ」
「馬鹿みたいにいつもいつも、一緒だよって、言ってて…」
彼の背中に回している腕に力を込めて、掴んでいる服をぎゅ、と強く握りしめた。ロスは何も言わない。黙ってボクの話を聞いていた。
「ボクは、ロスが好き」
「は?」


「特別の、好き」


勇気を出して伝えたそれは、とても小さな声になった。困らせてしまうとわかってる。でも、もう後には引けなかった。ロスの表情を、顔を見るのが怖い。恐る恐る顔を上げてロスの様子を伺うと、予想外の事態が起きた。ロスが固まったまま動かない。そして、じわじわとロスの顔が真っ赤に染まっていくのだ。
「へ…?」
あれ、どういうこと?なんでロスが顔真っ赤にするの?
「ロス…?お前顔が─ふごおお!!」
目が合った瞬間殴られた。やっぱりといえばやっぱりなのだが思いっきり腹にパンチを食らった。それもかなり痛い。
あまりの痛さに両膝を地面に付き、別の意味で涙が溢れてきた。
「ああすみません、アルバさんが気持ち悪くてつい殴ってしまいました」
「人の一世一代の告白なんだと思ってんだよお前!!」
ボクはロスにじろりと睨まれた。そしてぐい、っと右手を掴まれて立たされた。
「…あんた、本当に何もわかっていないんですね」
「な、なんだよ!」
「いえ、いいんです。オレも自分の性格捻くれてるって自覚してるので、きちんと話さなかったのもいけませんでしたし」
「自覚してたの!?」
口に出してしまったらもう遅い。容赦なくビンタされた。静かな夜にバチンと叩かれた音が響いた。そして両方の頬をむにっと掴まれて引っ張られる。
「いひゃいいひゃい!!」
「オレの方が早く自覚していたのに、なんであんたに先越されなきゃならないんだ」
「なひゅぎゃ!?」
何がと言いたいのに言えない。す、と顔からロスの指が離れて。
「……同じですよ」
「え?」


「オレは、アルバが好きです」


「は…?」
好きです。好きです。ロスの言葉を何度も心の中でリピートした。じわじわと顔全体に熱が集まってくる。顔だけじゃない。爪先から頭のてっぺんまで全身の血が沸騰したみたいに熱くなって、きっとボクの顔は真っ赤になっているに違いない。
「ええええええええ!???え、え、え、ロスが、え?好き!?嘘だ!!」
「うるさい!」
「わ―わ―駄目!暴力反対!!」
渋々ロスはボクを殴ろうとしていた右手を下げた。そして、ぐい、っとボクを抱き寄せたのだ。ドクンと心臓が飛び跳ねた。じわじわと顔に熱が集まる。腰に回されている彼の掌の形。密着するロスの温もり、匂い。何もかもがすぐ近くにあって。さっきだって自分からロスに抱きついたくせに、でもそんな余裕なくて、あ、やばい。これ、やばい。
「ロ、ロス、どうしよ…心臓、うるさい」
「うるさい黙れ」
「だ、だって」
ロスはぎゅう、と強くボクを抱しめてくる。なんだこれ。胸が苦しい。切ない痛い。でも、嬉しい。ボクもロス背中に腕を回し、ぎゅ、っと彼の服を引っ張った。
「…ロス、ボクは、ロスと離れたくない」
「………」
「ボクは狐で、自分の寿命もよくわかってなくて、でも…ロスを一人残して生きたいと思わない。お前の死を見届けるなんて…」
躊躇いが生まれ、言葉が続かない。

「今は考えるだけで怖い」

「アルバさん…」
「ねえ、聞かせて」
聞きたい。ロスの口からその言葉を。
「ロスは、ボクと一緒にいたい?ボクとずっと一緒にいてくれる?」
「本当にアホ狐ですね、貴方は」
即答された。
「な、なんだよ!」
「好きと伝えた時点でそう答えたようなものでしょう」
じわりと喜びが胸いっぱいに広がる。ロスの顔が見たくて身体を少し離してロスを見つめたらぷい、っとロスはよそ見をしてしまった。あ、これ、ひょっとして照れてる?そう思ったら愛おしさが込み上げてきて、再び彼に抱きついた。
「……ねえ、どうして、触ってくれなくなったの?どうして、敬語で話すようになったの?」
「………貴方って人は」
呆れた様な声。ワザとらしかっただろうか。でも、これくらい言わせて欲しい。
「だ、だって、ボクは、ロスに、本当は甘えたかった…昔みたいに、こうやって抱きついて、頭、撫でてもらいたかった」
チッと舌打ちされたが、ちっとも嫌な感じはしなかった。だってロスの顔、赤いんだもの。
「……触れてしまえば、歯止めが利かなくなると思っていた。敬語は…線引でもあった。貴方と、オレとの。無理強いをして、今の関係を、壊したくなかったんだ」
「ロス…」
「これでも結構楽しかったんだからな?お前との生活」
苦笑いも含まれていたその笑顔にボクは見惚れた。ロスの笑顔ってずるい。だって簡単にボクの心臓は飛び跳ねてしまう。好きだと自覚してしまったせいで尚更達が悪い。ボクは好き、と彼の耳元で小さく囁やいた。そうしてゆっくりと顔の位置を変え、お互いに見つめ合う。真直ぐに見つめてくる赤い瞳。綺麗だな、とぼんやりと考えて。ボクはつま先を伸ばし、ロスの唇へ自分の唇を押し付けた。それは触れるだけですぐに離してしまったけれど。瞳を開いて飛び込んできた、呆然としているロスの顔に思わず吹き出してしまった。
「くっそ、アルバのくせに生意気なんだよ!!」
我に返ったロスに頭突きされた。うわ、珍しい、あのロスが赤面している。耳まで赤い。
「あいた!!お前そうやってすぐ暴力振るうの止めろよ!!…んっ!?」
ボクは大きく両目を見開いた。ロスに胸倉を掴まれて、噛みつくようにキスをされたのだ。先程と同じくそれはすぐに離れてしまったけれど、ロスがぺろりと舌で自分の唇を舐めて口元を上げて笑ったものだがら、その姿に妙に興奮してボクの体温は急上昇した。
「…わっかりやすいですね、貴方って」
ロスの視線はボクの後ろへと向いて、それがぱたぱたと左右に振っていた尻尾だと気づき、慌ててその動きを止めた。ロスは犬ですか、と笑った。
「しょ、しょうがないだろ!!」
「ていうかうわーアルバさんその姿でこの辺うろうろしてたんですか?マジ引きます。獣耳とその尻尾…」
「止めて!そのどん引きした視線止めて!?」
ううくそ、ロスはすっかりいつもの調子だ。
「ほら、帰りますよ」
敬語だったりそうじゃなかったり。本当に癖になっちゃったのかな。駄目だ、ツッコムなアルバ。ツッコンだら絶対殴られそう。すたすたと一人で先に歩いて行ってしまうロスの後をボクは慌てて追いかけた。ボクは視線を落としロスの右手を見た。今なら、手を繋いでもいいだろうか。あの時より大きくなったボクの手。昔はロスの大きな手がボクの手をすっぽりと包んでくれた。そっと左手を伸ばし、ロスの右手を握る。温かい。そして、ロスは握り返してくれた。自然と指が絡む。嬉しい。ただ手を繋いだだけなのに、とても浮かれた気持ちになって顔が綻んだ。ロスを見ればそっぽを向いて目も合わせてくれなかったけれど。きっとそれは照れ隠しだ。そう思いたい。

ロスは、覚えているだろうか。
もうひとつ、ボクが幼い頃に口にしていた爆弾発言を。


『あのね、あのね、ボクがおおきくなったらロスはボクとつがいになるんだよ!」』


番になって。脳裏を霞めたその言葉を口にするにはまだ時間が必要だ。恥かしくて言えないよ。ボクが勇気を出して伝えられるようになるのは、もう少し先のお話。




END





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