ろすさんちのきつねるばくん(前編)


山が近い町で育った。といっても山が背景にあるだけで山中に住んでいたわけではない。
けれどここは都会とは違い田舎だ。電車は一時間に数本、バスなんて一時間に一本と車がなければ移動手段はないに等しい。そしてこの町には昔から野生の狐が現れる。近所には立派な稲荷神を祀る稲荷神社もある。が、だいぶこの町も子供の頃に比べ都市開発が進み緑が減り住宅街が増えた。今度山奥にはまた新しくホテルが建設予定だという。年寄達は狐の数が減ったと言うし、オレ自身実際に狐を目にするのは数えるほどだった。オレは高校卒業後、大学へ進学した。就職を考えていたが先生の勧めで地元の大学へ進学する道を選び、アルバイトをしながら一人暮らしをしている。父親はろくでもない研究馬鹿でほとんど家に戻りもしない生活を続け、幼い頃に別れた母親も兄も今はどうしているか知る由もない。実家から大学に通うには遠い。元々高校を卒業したら家を出る予定だったし、いい機会だった。朝起きて大学に行き、授業を受けて友人と話し、バイトに行き、帰宅する。毎日同じことの繰り返しだ。どこにでもいる普通の学生ライフを送っていた オレの平穏な日常は突如一匹の子狐の登場により、ガラリと変わることになる。

そう、あの日は雨が降っていた。小雨の雨が。

夕方、学校が終わり今日はバイトが休みなので真っ直ぐ家に帰ろうと車を走らせ自宅近くの駐車場へ車を止めて降りた時だった。子供の泣き声が聞こえたのは。この近所の子供だろうか。単純にそう思った。雨は止んでいる。オレは泣き声のする方へ一歩また一歩と近づいて、駐車場に止まっていた車と車の隙間にその子供はいた。わんわん泣いている。この時代には似合わぬボロボロの薄汚れた、恐らく白であった着物を着てその下から見える両足は擦り傷だらけで右足の膝小僧から血が流れていた。靴も履いていない。泥だらけの裸足だ。驚いたことにこの子供には獣の耳と狐の尻尾が付いていた。なんだ、コスプレか?よく見たら顔も擦り傷だらけで怪我をしているじゃないか。
「おい」
ビクッと子供は大きく身体を震わせた。
「こんな所で何をしているんだ?」
「う 、うわああああああんん!!!」
人の顔を見るなり大きな声でボロボロと涙を零しながら子供はオレの横を猛ダッシュで横切った。若干イラッとしたが走り出した子供の先にあるのは田んぼと道路しかない。しかし運悪く右側から遠くから光るヘッドライトが見えた。嫌な胸騒ぎがした。子供を再び見るが、子供の足は止まらない。一直線に道路へ向かって走っている。オレは駆けだした。
「危ないっ!!!」
オレは咄嗟に子供を後ろから強く抱きしめる形で引きとめた。その瞬間目の前を一台の乗用車が通過する。子供も事の重大さにようやく気がついたのか青ざめた顔で呆然としていた。オレもほっと一息ついたところで右腕に強烈な痛みが走る。咄嗟に子供を両腕から離してしまった。右腕には くっきりと歯型が残っている。僅かに血が滲み出ていた。噛まれたのだ。子供はオレと数メートル距離を取り、両手を地面に付き、尻を高く上げ尻尾をピンと上げてウウウッ!と声を唸らせている。そう、それはまるで獣が警戒サインを出している、そのものだ。
「いきなり噛みつくとはいい度胸だなこのクソガキ」
ボキボキと指を鳴らしにい、と口元を吊り上げれば子供はビク!!とまた身体を震わせた。
成程、どうやらこれは強がっているだけだな。本当は怖くて怖くて堪らないのだろう。
「とりあえずお前こっちにこい」
フルフルと首を左右に振る。オレは短い溜め息をついて子供に近づき、右手を伸ばせばガリッと手の甲を引っ掻かれた。ツウ、と縦に赤い線が浮かび上がる。よく見ると子供 の爪がかなり長い。
「大丈夫だ、何もしない」
まっすぐにその黒々とした瞳を見つめる。その瞳は不安に怯え、警戒をうつしている。動物の警戒心を解くにはどうすればよかったかとぐるりと考える。いや、こいつは人間なのになんでそう思ったんだ。動物のような行動に妙な格好をしているせいか。子供は目を伏せて視線をきょろきょろと動かし戸惑っていたようだがおずおず、と一歩、二歩とこちらに近づいてきてた。オレは首に巻いていた赤いスカーフを解くと膝を折り、擦り剥いて血が出ている膝小僧の辺りに結んでやった。
「!」
子供は逃げなかった。大人しくしている。代わりにまじまじとスカーフとオレの顔を交互に見ている。赤いスカーフなら血の色もそんなに目立たないだろう。子供は じい、と穴があくほどの熱い視線をオレに送っていた。
「なんだ?どうした。お前この辺の子供じゃないよな?どっからきたんだ」
しかし子供は何も答えない。とろんと目が閉じてぽす、っと小さな身体が倒れてきたので咄嗟に抱きかかえた。
「おい!」
声を掛けてもピクリともしない。小さな寝息が聞こえてくるだけだ。子供は腕の中で気絶するように眠っていた。


「…どうすればいいんだ、これ」


「これは驚いた。狐の子だ」
「え?」
いつの間にか、見知らぬ老婆が立っていた。老婆は真黒な着物姿だ。着物の膝のあたりに白い一羽の蝶の柄が妙に目に焼きついた。老婆は杖をつきながらゆっくりとこちらに歩いて、そっと腕の中の子供の顔を覗き込んで皺だらけの顔で微笑んだ。
「めんこいのう。この耳と尻尾は本物だよ。ほれ」
子供の耳がぴくぴくと動いて目を疑った。そっと触ってみるとまた動いて生温かい。ゆらゆらと揺れている尻尾も本物のようで、まさか、本当に…?
「こうしてお前さんと出会ったんだ。これも何かの縁じゃろうて。狐の子、大事にしてあげなさい」
「どういう意味ですか?」
オレが訝しんで問うても老婆はにこにこと微笑んでいるだけだ。
「ん…」
子供が身じろいだのでちらりと視線を子供に向ける。小さな息使いにすやすやと眠っている。
もう一度視線を上に戻せばそこに老婆の姿はなかった。オレは両目を見開き辺りを見回しても誰もいない。本当に、誰もいなかった。確かにここに、さっきまで人がいた筈なのに。老婆の姿は消えていた。


[newpage]

朝、大学に行く準備をし玄関に移動したが脇に置いておいた黒のショルダーバッグがない。その瞬間眉間に皺が寄った。バッグはないがバッグの中身、教材や筆記用具、麦茶の入ったペットボトルまで外に散らばっている。こんなことをする犯人はただ一人だ。

「アルバ!」

シンと室内は静まり返っている。ここからでは姿が見えないが1Kの洋室六帖程の部屋だ。聞こえていないわけがないだろう。オレは部屋に戻り部屋の脇にいた小さな塊に声を掛けた。
「アルバ」
びくっと小さな身体は震えて、茶髪でくせ毛の頭の上にある両耳と、毛がもっさりしている尻尾をピンと立てた。首にはお気に入りの赤いスカーフを巻いてオレンジのシャツにグリーンの 短パンを着ている小さな塊。恐る恐るそれはこちらを振り返る。大きな鳶色の瞳がゆらゆらと揺れている。この塊の名前はアルバ。小さな子狐だ。ひょんなことから今は一緒に暮らしている。数週間前親とはぐれ、近所でわんわん一人で泣いていたところをあのまま放っておくわけにはいかず拾ってきたのだ。始めは警戒心が強く泣くわ喚くわ引っ掻くわで散々だったが今ではすっかりオレに懐いている。あの警戒心はどこへいった状態だ。そしてよくアパートから脱走しては迷子になって保護される。毎度毎度オレに連絡が入るのはもう慣れた。
「玄関の前に置いておいたバッグが見当たらないんだが?」
「し、知らない! 」
嘘を吐け。アルバは両手を後ろに回し、明らかに何かを後ろに隠している。ていうか隠してるつもりか。バッグの肩紐が後ろから見えている。アルバは両耳を後ろに流し、涙目で見上げてくる。だがオレはアルバの背後に右腕を伸ばし、強引にバッグを引っ張って取り返した。
「あ!だめ!」
ぎゅううううっとバッグを小さな両手が掴んでいるが強引に引き離した。
「どうしてこういうことをしたんだ」
「…だって、ロスがでかけようとするから…」
「昨日大人しく待っていろと言っただろ?」
「やだ!でかけちゃだめ!」
「遊びに行くんじゃないんだ!」
少し大きな声で叱ってやればアルバはビクリと身体を震わせた。
あ、泣きそう。と思った矢先大きな鳶色の瞳からはボロボロと 涙が零れた。やばい可愛い。畜生声に出して言うな。言うな。アルバはオレが出かけると必ず機嫌が悪くなる。家に戻ってもしばらくは箪笥の隅に隠れて尻尾をばしばしと床に叩いて不貞腐れる。
飯の時間になればコロッと態度を変える現金な奴のくせに。
「…ぐすっぐすっ」
「この前は一人で留守番できただろう?午後になれば近所のルキが遊びに来てくれるから」
「やーだーろすーろすー」
アルバはオレに小さな身体を体当たりして、ぎゅうっと抱きついてきた。
「ああこらひっつくな!鼻水がつく!」
毎朝これが続くと流石に滅入る。自分で言うのもなんだがオレは口より手が先に出る方だ。
一度アルバを叩いてしまい、随分泣かれて数日間は警戒された。流石に子供に暴力を振るう気にはならない。オレはべりっとアルバを引き離した。くっそ、涙と鼻水が見事に腹の辺りについてやがる。この際何でもいいかと上着を脱いで箪笥から適当に黒のシャツを引っ張り出すと袖を通しながらキッチンの横にある洗濯機の中へ鼻水付きの服を放り投げて玄関に戻った。
アルバはとたとたと後ろから付いてくる。玄関前までくると丁度インターフォンが鳴った。
「おっはよー!シーたん!」
「クレアだ!」
外から聞こえてきた声に元気よくアルバが答えた。がちゃがちゃとドアの鍵のノブを回し、開ける。すっかり施錠の仕方を覚えてしまった。が、甘い。チェーンは外せまい。予想通りがっとドアが少しだけ開いて止まった。
「ロス!あかない!あーけーてー!」
やれやれとオレはチェーンを外しドアを開けると幼馴染で茶髪の青年、クレアが顔を覗かせて玄関に足を踏み入れた。クレアは同じ大学に通っていて、住んでいる場所も歩いて十分足らずの所なので時折こうして朝家に来るのだ。その後は一緒に大学に行く。まあ最近はアルバがいるせいかほぼ毎日顔を出しに来るが。
「おはよう、アルバ君!」
クレアはしゃんがんでアルバの目線になるとわしゃわしゃとアルバの頭を撫でた。撫でられて気持ちがいいのか嬉しそうにきゃーと鳴いた。
「シーたん。またアルバ君泣かしたね。目の所涙の跡ある。わ、どうしたのこの床に散らばっている教材達!」
クレアは立ち上がりながらアルバの後ろの惨状を眺めている。
「中身を全部出されて、 バッグを隠された。また出かけるなと騒いだんだ」
「おー愛されてるねえ。ふごお!!」
にやにやと笑っているクレアにイラッとしたので一発ビンタをかましてやった。
「ねえねえ」
「ん?」
くいくいとアルバの小さな手はクレアのズボンの袖を引っ張った。
「なんでクレアはロスのことをしーたんってよぶの?」
「小さい頃からのあだ名だよ」
「あだな?」
「おい、余計なことを吹き込むな」
右側に置いてある傘立てからビニール傘を一本拝借。
「ちょ、もう喋んないからその傘持つのやめて!?」
「ねえねえ、あだなってなあに?ボクにもある?」
「あだ名付けて欲しいの?」
「アバラボキボキアバラマーンでいいんじゃないか?」
「ちがうわ!ア・ル・バ!!ぼくは アルバだよ!!」
「うわーアルバ君のツッコミスキルどんどん上達してるね!」
クレアは関心したようにまたアルバの目線になってしゃがんでわしゃわしゃ頭を撫でた。
「つっこみ?ボクはおもったことをくちにしただけだよ?」
「それをツッコミって言うんだよー」
クレアがアルバの相手をしている間に床に散乱した教材らをバッグに詰めなければ。
手元にあるA4のキャンパスノートを拾おうとして、ぱし、っと小さな手がノートに触れる。一足先に取られてしまった。顔を上げればふくれっ面をしたアルバ。しっかりと妨害された。
「アルバ」
「やだ!だめ!でかけちゃだめ!」
「シーたんっ…何この可愛い生き物…!!」
クレアは口元に手を当ててなにやら震えている。
「悶えるなきもい」
「酷い!!ねえ、だったら今日はアレスさんの所の病院に預けたら?」
「それでも脱走するんだぞこいつ」
「う〜」
アルバはぎゅ、っとノートを両手で抱えて睨んでくる。本人は睨んでいるつもりでもただの可愛い行動にしか見えない。絶対口に出して言うつもりはないが。オレはアルバの頭を撫でて一言。
「良い子に留守番できたら褒美にアイス買ってきてやる」
「アイス!?」
アルバはノートから手を離してキラキラと目を輝かせている。単純だ。
「それシーたんが食べたいだけなん、ふごおお!」
クレアはうるさいのでとりあえず一発沈めておいた。
「じゃあ一人で待てるな?」
「うん!待ってる!がんばる!」
ちょろい。オレは今のうちに素早くバッグの中に散らばった教材類を詰め込んだ。そして急いで靴を履く。
「よし、行くぞクレア」
「え、う、うん」
クレアはアルバを気にしているようだったが強引に腕を引っ張って外へ連れ出した。
「いってらっしゃーい!」
アルバはアルバでにこにこ笑ってすっかりご機嫌になっている。エサで釣るのが一番効率がいい。気が変わらないうちにさっさと出かけることに越したことはない。しっかりと玄関のドアに鍵をかけて。オレとクレアはアパートを出て近くの駐車場へ向かった。
「あーあ。あんな小さな子騙して、いけないんだ」
「人聞きの悪いこと言うな。約束は守る。それに あれは躾の一環だ」
「そっか」
「そうだ」
今一瞬何かこの場に足りない気がしたがまあいい。
「そういやお前またオレの車に乗り込む気じゃないだろうな?」
クレアが家に来るようになってからほぼ毎日オレの車の助手席にはこいつが乗る。だがクレアに運転はさせたくない。こいつの運転は危険すぎる。一応同じ教習所に通って免許を取ったには取ったが、教える側も相当苦労したらしい。免許が取れたこと自体奇跡だ。一度クレアに運転させたら標識無視は当たり前、スピード制限なんて守りもせずに猛スピードをしやがったせいで速攻で運転を交代させた。当然きつい一発をお見舞いしてやったが。
「も〜シーたんだってわかってるくせに!」
「よし、わかった。クレアは歩くんだな」
「え!!冗 談だよね!?無理だよオレ遅刻しちゃうよ〜!!」
「…チッしょうがないな」
「やったー!さっすがシーたん!愛してる!」
「うざいきもい死ね」
「酷い!!でもさあ、ねえシーたん、アルバ君って本当に可愛いねえ、狐ってあんなに可愛いんだねえ」
なんてしみじみと話すクレア。オレは無言で車のキーをポケットから取り出した。あいつが、アルバがここにいるのが当たり前の生活になりつつある。アルバを家に連れて帰ってからのこと、何よりオレが驚いたのは周りの適応能力だった。こんな生き物出歩いているだけで普通は驚く筈なのに耳は帽子で隠せるとして尻尾まではそうはいかない。が、コスプレだと思われたのか意外と外に出て連れ歩いても平気だった。近所の動物病院の獣医もいや、こいつ獣医でいいのか?と思ったが普通に対応しているし幼馴染みのクレアも何も疑問にもちやしない。クレアならばと、アルバに付いている人間にはないそれは、本物の耳と尻尾なんだと教えてやったが「まじかよすげーな!」で済んではいおしまい。 まあこいつは元々阿呆で馬鹿だから置いといて。狐につままれた、とはまさにこのことだ。


[newpage]

夕方、今日はバイトもないし約束のアイスを買って帰ろうとコンビニに立ち寄ろうとしたその直後一本の電話が入った。表示には「ハジマーリ動物病院」と出ている。その電話の内容が手に取るように理解できた。
『あの、ロスさん…』
少し控えめで高い女性の声。電話の相手は予想通り、ヒメさんだった。
「ああいいですよ。用件はもうわかっています」
『あはははは、ですよね。アルバ君、家の病院で預かっていますから』
「いつもすみません、今家の近くのコンビニにいますので、すぐに迎えに行きます」
オレは電話を切り溜め息が漏れた。また脱走したのか。病院、と言っても動物病院の診療所で大きな病院ではない。ヒメさんはそこの獣医アレスさんの助手をしている人だ。なんだかんだでこの二人には世話になっている。主にアルバ関連で。数十分後病院まで迎えに行った頃には辺りは日が落ちて真っ暗な夜になっていた。田舎なので星はそれなりに見える。ハジマーリ動物病院はそれほど大きな動物病院ではない。病院の中は白を基調とした壁に正面には受付。少し奥にはナチュラル色の木の長椅子でできた待合室がある。中に入ると受付にいたヒメさんに挨拶をして長椅子の上で足をぷらぷらさせていたアルバは案の定不貞腐れていた。
他に客はいないようでアルバ一人だ。
「アルバ、帰るぞ」
「……………」
アルバはちらりとこっちを見たが返事もしない。無言で睨んでくる。
「……うそつき」
「何が」
「こんなにおそくなるって、いって、なかった!」
アルバは怒っています、とでも言いたげな顔だ。
「いつもより早いだろうが」
バイトがある日は帰りが二十二時近くになる時もある。流石にその時は病院に預けたり、近所のクレアに面倒を頼んだりしているが。最終手段として金を出せばもう一人、近所に住むトイフェルに預けることもできる。金が絡むのは病院も同じだがこいつの場合高い金額を請求してくるのでまずほとんど頼まないが。
「はやくない!ばか!ロスのばか!」
アルバはぐずぐずと泣きだして抱きついてこようとしたがまた鼻水を服につけられる前にひらりと交わしたらびたんと盛大に転んだ。
「うっうっ」
アルバはゆっくりと上半身を起こす。お、泣くまいかと我慢している。涙をいっぱい両目に溜めて、零れ落ちてしまいそうだ。
「泣きますか?泣いちゃいますか?ほーらもう涙がいっぱいですね?本当にアルバは泣き虫で困った狐ですね」
しまった、つい意地悪な事を言ってしまった。
「な、なかないもん!」
アルバは顔を真っ赤にして抗議してくる。しかしこの顔、アホ面というかなんというか、見ているだけでいじめたくなる。
「…ほら、さっさと帰るぞ」
手を差し出してやれば、アルバはこくりと頷いたが、手は握ってこなかった。代わりに両手を伸ばしてきた。抱っこの合図だ。その前にポケットティッシュをポケットから取り出し、口の周りと涙と垂れている鼻水を拭いてやる。アルバはちーんとやった。ティッシュを近くのゴミ箱に放り投げてオレがアルバを抱き抱えてやると、ひっくひっくと小さく嗚咽をして、大人しく胸に顔を摺り寄せてきた。そうして病院の入口の前でヒメさんに一言。
「お騒がせしました」
「いいえ」
「本当にいつもいつもすみません、こいつすぐ脱走するんで…」
アルバは無言でぎゅ、っとオレの上着を握った。
「最初はルキちゃんと良い子で待ってたんですよ。でもルキちゃんもお家に帰っちゃってからは…で、でもここに来てからも良い子で待ってたんですよ、ロスさんのこと」
「いつものように不貞腐れていますけどね」
「あははは…」
苦笑いを零しながらヒメはつい、っと視線をアルバに落とした。いつもアルバが首に巻いている赤いスカーフに。あの時膝小僧に巻いてやってからこれがいたく気に入ったらしく毎日首に巻いて欲しいとせがむので、アルバにオレがあげたものだ。
「ねえアルバ君、前から気になってたんだけど、いつもその赤いスカーフ首に巻いてるね?」
途端アルバはにこにこになって明るい顔を綻ばせた。
「うん!ろすからもらったの!」
「そうなんだ、だからそんなに嬉しいの?」
「うん!だいじなたからものなの!だいじなおまもりなの!」
「か、 可愛い…!!!」
ヒメさんも顔を綻ばせる。
「…それでは、今日はこの辺で失礼します。アレスさんにもよろしくお伝え下さい」
「はっ!あ、そ、そうですよね!はい!いつでもまた遊びに来て下さいね!」
「ばいばーい!」
アルバは元気良くヒメさんに別れの挨拶をした。スカーフのことを聞かれてご機嫌になったのか。わかりやすいやつだ。病院を出て夜道を二人で歩く。といっても抱き抱えているのでオレが一人で歩いている状態だ。病院から自宅のアパートまでは歩いていける距離で、田舎の道は街灯がぽつりぽつりと立ってはいるが比較的暗い。夜空は星が見えて綺麗だ。おまけに今日は満月だ。明るい月がはっきりと見える。
「まんまるだね」
「ああ」
それきりアルバは口を開かず、ただじっと月を眺めていた。


「ロス、ずっといっしょだよ」


ぽつりと。アルバは言った。
「アル、」
「ずっと、ずっといっしょにいたいよ」
アルバは頭を胸に摺り寄せてくる。声が震えていたような気がして顔を覗きこめば、今にも泣きそうな顔をしていた。こっちを見ていることに気がついたアルバはにっと歯を見せて笑った。
「…………」
「ロス?」
ずっと。その言葉の意味をこの子狐は理解しているのだろうか。
いつか別れはやってくる。それは、必然で絶対だ。オレは人間でアルバは狐。
もし、もしもこいつが実は何百年も生きられる寿命の持ち主だとしたらオレは確実に先に死ぬ。アルバを残して。
「─……ああ、そうだな」
「たのしいことも、かなしいことも、ぜんぶぜんぶいっしょにすごすんだよ」
アルバはそれでね、と言葉を続けて、ちらりとオレを見るとふふと笑った。
「あのね、あのね、ボクがおおきくなったらロスはボクとつがいになるんだよ!」
「意味わかって言ってるのかお前…」
アルバは小首を傾げる。ったく、こっちの気も知らずに呑気な狐だ。
「つがいはずっとずっといっしょにいてくれるひとのことだって、たいせつなひとのことだってボクのおかーさんいってたよ!」
「まあ、間違ってはいないな」
大切な人、か。
「ロスがいたいたいしたらボクがとりはらってあげるからね」
「!」
ドキリと心臓が高鳴った。恋のそれとは違う、ぎくりとしたものに近い。
「ロスがかなしかったらボクもかなしいから。ロスのかなしいはボクのかなしいといっしょだよ」
アルバはふわりと笑う。じわりと温かいものが胸に染み込んでくる。照れくさいがたまには悪くない感情だ。アルバは小さな手でぐいぐい服を引っ張ってくる。そうして自分の頬をオレの頬に摺り寄せてきた。答えてやるように、抱き抱えている腕に力を込めると、アルバは嬉しそうに笑った。
「よし、コンビニ寄っていくか。アイスを買いに。結局買いそびれたからな」
「いいの!?」
「オレの分のみな」
「ロスのぶんだけかよ!」
意地悪く言ってやれば即効ツッコミが入った。
「脱走して約束を守らなかったアルバが悪い」
アルバはしゅん、としてうるうると瞳が揺れている。ショックを受けているとはっきりと顔に描いてある。いや待て待て。ぞくぞくするな。楽しいと思うな。相手はまだ子供だ。オレは必死に自分の中に湧き上がってきた感情を抑えつけた。
「……仕方がない。まあ今日は特別だ。次脱走したらビンタ一発な」
「いやだよ!いたいよ!ていうかぶっちゃだめだよね!?」
「ああそうだ、ちゃんと風呂にもはいらないとなー」
「いやあ!おふろきらい!!」
きゃんきゃん耳元で騒ぐアルバを地面に落としてやりたい衝動に駆られたが、耐えろ。
泣かれた ら泣かれたで困る。いや、下手したらツッコンでくるかもしれない。
そんなことを考えながらオレは夜道を子狐を腕の中に抱えながら歩いた。



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