風邪
「あの、竜ヶ峰君。早退した方がいいんじゃないですか?」
一時間目が終了と同時にクラスに話し声が飛び交う。そんな短い休み時間の中園原さんが声をかけてきた。
「大丈夫だよ、声が変なだけだし」
「でも…」
「帝人〜お前そのハスキー声やばすぎ。帰った方がいいって。なーに心配すんな!今日は俺と杏里で
よろしく二人でラブラブ学園生活を送るからさ!」
いつからこっちのクラスに来たのか正臣が現れた。
「なおさら帰れないだろ、本当に心配ないって」
「駄目です…大事を取って帰った方がいいです!」
「…うーん、園原さんがそこまで言うなら…」
「おやおやあ〜?」
「何だよ」
「俺の話は聞かなかったのに杏里の言う事は聞くわけだ」
僕は声が出ない代わりににこりと笑うと正臣の足を踏んだ。
が、結局二人の行為に甘えることになった。日がまだ高い内に校舎を後にする。
平日の池袋は人々でごった返していた。皆がそれぞれの方角へ向かう中僕も家路に向かった。
本当に熱はない。声以外はいたって元気だ。なのに二人とも大げさだと思う。だけど、そんな二人の気持ちが嬉しかった。
「ただいまーって誰もいないのに─」
「ああ、おかえりーてかどうしたのその声風邪?」
あれ、おかしいな。戸締りきちんとした筈だよね。一度ドアを閉めて開けてもう一度部屋を見る。
どうみてもそこにはにこにこと笑った臨也さんが僕の部屋のど真ん中に座り込んでいた。
しかもちゃっかりノートパソコンを持ち込んで何やらしている。USB型のデータ通信カードが放つ
ちかちかと青白い光に目が行った。一瞬自分のパソコンをいじられたんではないかと脳裏を過ったが先手を打たれた。
「君のパソコンには触れてもいないから安心しなよ」
「なんでいるんですか!」
「すごい声。寝た方がいいんじゃない?」
「熱ありませんから、別に」
「え、じゃあさぼりだ。君でもさぼりとかするんだ」
臨也さんは大げさに肩で笑っている。
けれど僕もなんとなくパソコンを付ける気分にもならなくてかといってこの狭い部屋に二人きり。
「あの、帰らないんですか」
「うん」
「………着替えたいんですけど」
「どうぞ」
「あっち向いてて下さい」
「男同士なんだから気にする事ないでしょ。てゆうかマジ喋らな方がいいよ」
「誰のせいで喋っていると…ゲホゴホゴホッ!!」
「ほら、言った先から」
「帰れーっ!!」
「まあまあ」
この人の相手をしていると本当に疲れる。今日はそれが何倍にも増して余計に。
僕は盛大にため息をつくと今日はもうおとなしく寝ることにした。布団を敷いて横になる。
臨也さんは制服ぐしゃぐしゃになるよ?とか言ってくる。誰のせいで着替えられないと思ってるんだよ全く。
恐らく仕事だと思われる臨也さんの背を眺めながらうとうとと意識を手放した。
*********
あれからどれぐらい時間が経ったのだろう。いつの間にか眠っていた。
部屋には僕一人だ。臨也さんはいない。けれど畳の上には臨也さんのノートパソコンが置きっぱなしだった。
帰ってくるつもりなのか、あの人。…けれどそう思ったらなぜかほっとした。
って、何ほっとしているんだか、不法侵入しているのに。
今のうちに着替えてしまおうと僕はしわくちゃになったワイシャツのボタンに手をかけた。
熱はないと思うから寝ていれば治るだろう。それにしても咳が辛い。さっきから
ずっと咳が止まらないし頭もぼーっとしているのもわかる。
……これは早退してきて正解だったかも。着替えを済まして再び布団に入ると
外からゆっくりと階段を上る音がした。臨也さんかな、ああうん、多分あの上り方はそうだろう。
上半身を起こすとがちゃりとドアが開いた。
「あれ、起きてたんだ」
僕は返事の代わりに頷いた。
「はいー体温測るね」
臨也さんはぶら下げていたポリ袋から耳式体温計を出すと僕の左耳に突っ込んだ。
「……37度、と。微熱だね。ちょっと待ってて」
彼は立ち上がるとキッチンに立ち鼻歌を歌いながら何やら
作り始めた。何をしているのか気になったけれど声がこんな調子じゃ
言葉にする事が酷く面倒でそのまま布団に体を預けて瞳を閉じた。
お湯の沸いた音がしてしばらくすると臨也さんがマグカップを持ってこちらにやってきた。
「はいこれしょうが湯ね。折原家特性しょうが湯」
湯気と絡まり甘い香りが広がっていい匂いだ。一口口を付けると蜂蜜としょうがの味が口の中に広がった。美味しい。
僕は枕元に置いてあった携帯を持ってメール作成欄を開いて文字を打つ、そして彼の前に見せた。
『ありがとうございます』
「子供の頃によく母親が作ってくれたんだよね。あ、今風邪でも引くんだとか思ったでしょ。俺だって人間だ、病気にもなるさ」
そう言いながら彼はまたパソコンに向かった。僕は一口一口味わって飲む。
体が温まってきてカップが空になって立ち上がろうとしたけれど
「いいよ、寝ていて」
と彼自らが立ち上がって流しに置いてくれた。今日の臨也さんは変だ。気味が悪いと感じる程優しい。
彼はこんなことをしてくれるような人だっただろうか。普段なら「俺が看病なんかすると思う?」
と言われてしまいそうだ。臨也さんは僕に背を向けている。スピーディーに僅かに聞こえるボードを打つ音。
手を伸ばせば届きそうな距離。風邪をひいたりすると人恋しくなるっていうけれど…一度伸ばして、拳を作って手を止める。
そしてくい、と服をひっぱると臨也さんがこちらを振り向いた。
「何」
「あの…」
「ん?」
「…」
「帝人君?」
臨也さんは顔を近づけて覗き込むようににこりと微笑んだ。僕もどきりとする。
ああもうこれだから顔のいい人は困る。咄嗟に視線を外してしまった。
なんだかとても恥ずかしい。言葉を紡ぐのがこんなに勇気のいることだっただろうか。
『帰らないでください』
「うん」
どうしてそんなに嬉しそうに笑うんだろう。ずるい人だ。
僕がその笑顔が好きだって知っていてわざとそうやって笑ってくれるんだ。
『本当に?』
「眠るまでいてあげるよ」
眠ってしまったら帰ってしまうのかな…
「ふふ、不満そうな顔」
『そんな事ありまs』
携帯を打つ指が止まる。顔がもっと近づいてきて、キスされるっとぎゅっと両目を瞑った。
臨也さんの前髪が顔に触れてちょっとくすぐったい。けれど僕が予想した事は訪れずに何もされないまま時間は流れていく。
あれ……?何もされない?恐る恐る瞳を開けるととちゅ、と音を立てて唇が落ちてきたのはおでこだった。
「おやすみ」
この人は、本当にずるい人だ。
カッコイイだなんて絶対に言ってやらない。
10.3.2